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Japan As No.1 ⇒ バブルの入り口

 日本の高度経済成長の要因を海外の研究者が分析し、「日本型経営」への関心が高まっていた時代。そこはまさに後世「バブル」と呼ばれる高景気の入り口で、世の中は、饗宴前の慌ただしい高揚感に満ちていた。かように盛り上がる世間の一隅で、私は、四畳半一間の下宿で暮らす貧乏学生で、毎月末をいかに乗り越えるかという喫緊の課題と向き合い、それでいてなぜか呑気で賑やかな日々を、似たような境遇の仲間たちと過ごしていた。大学ではESS(英語会)に所属し、ケネディ大統領やリンカーン大統領の演説を諳んじ、英語劇の台本を読んだりして、英会話をそれなりに学んでいた私は、エズラ・ヴォーゲルというアメリカの社会学者の「Japan As Noumber 1」という著書に出会い、その面白さに引きずり込まれ、研究社の英和辞典と首っ引きで2か月かけて何とか原書で読みとおした。

 アメリカやイギリスの資本主義先進国が様々な問題を抱え、特に財政面での赤字が膨らんでゆく中、日本は製造業中心に国際競争力を高め、すでに他の先進国にとっては要注意銘柄となっていた。その後、主要国、特にアメリカからの圧力により、政府は「内需拡大策」を展開せざるを得なくなり、原油価格の下落と言う交易利得とあいまって、日本経済が実態以上に過大評価される「バブル」期を迎える萌芽は、世の中のあちこちに見受けられた。

 ヴォーゲル氏は、ある雑誌のインタビューで日本についてこのように語っていた「日本の一般的な国民の英語力は他の国より低い。しかしながら優秀な官僚主導の経済政策が機能し、他国を圧倒する経済成長が持続している」つまり、官主導の経済政策の下、民はその下の働き手として日本経済を支え、日本は国際競争力を拡充している、ということになる。民間が経済の主力であり、行政の干渉を極小化することで貿易大国を築いてきたアメリカからみると驚嘆のシステムに思えたのだろう。

 官(=東大)に対峙し、在野の精神を誇る民の雄、早稲田に学ぶ学生としてはこれは面白くなかった。「もし、民間の英語力がさらに高まり、民主導の国際化が進めば、日本は無敵の経済大国となれるのでは?」けっこうマジメにこのような仮説を立てた。(*もっとも周囲には東大進学の夢叶わず、不本意ながら早稲田に来た連中も結構いた。そんな我々の叫ぶ「在野の精神」は怪しいものだった。多分の80%くらいはコンプレックスの裏返しだった、と思う)

【大隈講堂】

 何はともあれ、まだ若くて、今よりもずっと単純だった私は、こうして英語を勉強する決意を固めた。この時点で私の「国際化」も「グローバル」もすべてアメリカが前提となっており、とにかく少しでも早くそこに行き、英語を駆使して仕事をすることが私の夢に近い目標となった。後から思えばなんとも皮肉なことではあるが、青春時代の私はアメリカに恋い焦がれた。

 まさに遠いアメリカ物語の始まりだった。


【2020年(令和2年)5月18日】
 新型コロナによる緊急事態宣言が39県で解除されたことを受け、今週末は久しぶりにユウが名古屋から帰ってくるそうです。社会人2年生としては、後輩も職場に配属されてくるでしょうし、任される予算も昨年度より大きくなったはずです。何よりも束の間肩の荷を下ろし、ぐっすり眠りに来るのでしょう。
長男のナツも、ずっと在宅中心の不規則勤務が続いていましたが、間もなく時短含みの毎日勤務に戻るようです。そうそう4月には昇格したと喜んでいました。彼も、担う仕事が質量ともに少しづつ変わってゆき、その中で、時折苦しみながらも、ゆっくりと成長してゆくのでしょう。もう、私が彼らにアドバイスできる事はあまりありません。

 私の転勤に伴い、2人は転園や転校を何度も経験しています。ナツは小学校3年生で札幌から新浦安の学校へ転校。4年生になったときに、私の赴任に伴い香港のカナダ系インターナショナル校に編入しました。ユウは、札幌の幼稚園に入園し、年長組になるタイミングで新浦安に引越、卒園とともに香港に来て、兄と一緒に同じ学校に一年生として入学しました。
2003年3月、当時香港ではSARSの感染拡大が深刻化し、ナツとユウも入学手続きした直後に休校となり、実際に学校に通い始めたのは5月中旬からでした。

 アジア系移民の受け入れに熱心なカナダでは、英語を母国語としない子供たちに楽しく英語を学ばせるカリキュラムが豊富で、彼らの通うインター校でも、クラスにはインド人、台湾人、韓国人など多国籍な友達がたくさんいたそうです。英語はまったくできない状態での入学でしたが、そこは頭も柔らかく、耳も素直な子供のことです。半年もすると、先生や級友とわいわい楽しく会話できるようになりました。うらやましいですよね。私が18才で、それなりに苦労して身に着けた英会話の能力、少なくとも発音に関してはあっと言う間に彼らが超えてしまいました。

 私が大学でESSに入部し、英語を学んだ頃は、まさにJapan as No.1という本がベストセラーとなり、日本の高度経済成長の要因を海外の研究者が分析し、「日本型経営」への関心が高まってゆく時代でした。エズラ・ヴォーゲルというアメリカの社会学者はインタビューの中で「日本人は一般的に英語力は他国に比べて低い。ただしそれをカバーして余りある経済官僚主導の経済力が他国に対する優位を形成している。」とコメントしていました。これを聞いた、若き日の私たちは「もし、民間の英語力がさらに高まれば、日本は無敵だ。経済戦争では世界の覇者になれるかも」と意気軒昂たる思いで英語を勉強したものです。

 たしかに、敗戦で多くの物を失った日本が、その後目覚ましい経済発展を遂げ、戦勝国であるソ連や中国が管理経済の行き詰り、社会主義体制自体が末期を迎え、アメリカやイギリスが資本主義大国としての矛盾に悩ませれている中で、敗戦国日本の復活は奇跡と讃えられるに値するものだったと思います。マレーシアの首相に就任したマハティールが1981年に唱えた「ルックイースト政策」に象徴されるように、かねての軍国主義日本を警戒したアジア諸国からも日本型発展を見習おうとする機運が高まりました。

 こうして、いくつかのプロセスを経て、日本は内需拡大策の展開からやがてバブルに突入していきます。

 私たちのように、高度経済成長期と学生運動の後に大学生をなった世代、別の言い方をすれば共通一次入試が始まった頃に大学受験した世代は「無共闘世代」とか「しらけ世代」「新人類」と称されます。前世代の若者との対比で、私たちの熱量の少ない態度や思考を揶揄した表現でしょう。
言われてみれば「もはや戦後ではない」という気合の入ったモーレツ世代や、「大学解体」「安保反対」を叫んで学内にバリケードをはった全共闘世代とは明らかに価値観が違います。私たちは「滅私奉公の精神で仕える」ことも、「声高に主義主張を主張」することもしません。ひたすら「ダサ~い」ことはせずに、自我を大切に、少しばかり利己的な生活を理想としました。

 東大安田講堂事件が起こった時、私は小学校低学年でした、白黒テレビから流れる報道をみて、母さんが「東大に入れる秀才がなしてこんな暴力ふるうんかね。親は泣きよるやろうね」とこぼしたのを覚えています。その後のサラリーマン人生を通じて何度となく全共闘世代の上司に仕えましたが、確かに扱いにくい先輩が多かったです。無駄に議論をふっかける(屁)理屈屋さんが大勢いました。おかげで、反面教師には事欠きませんでした。

 あの人達、どうしてるかなぁ?口うるさい爺さんになっちゃったでしょうね。

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