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宮沢賢治 やまなし 本質の解明 ③

4 「お魚」の謎

 「五月」において、「クラムボン」「カワセミ」と同じくらいに存在感をもつ「お魚」。これについて宮沢賢治は一体何を表そうとしたのでしょうか。やまなしを読解する際に、比較的さらっと解釈されてしまいがちな「お魚」ですが、ただカワセミに食べられるためだけに登場させるのだとしたら、こんなに何度もその行動に言及することもないでしょう。そこにはきっと、「クラムボン」のような深い事情が隠されているような気がしてなりません。
 まず、魚の行動を見ていきます。はじめ、魚がつうと銀の腹をひるがえしてカニの頭上を通り上の方へ行きます。その後、まもなく魚は上から戻ってきて下の方へ行きます。川の様子が一変した後に、今度は光をまるっきりくちゃくちゃにして、おまけに変に鉄色に底光りして、また上へのぼります。そしてまた戻ってくるのです。ただ、少し様子が異なり、ゆっくり落ち着き、ひれも尾も動かさずに口を輪のように円く開けてただ水にだけ流されながら下の方へ行きます。そして、その影が黒く底の砂をすべります。
 続いて、魚に関するカニの兄弟の会話です。弟のカニは、これらの行動を行ったり来たりしていると捉え、兄に何をしているのかを問います。兄は、ここでも「クラムボン」のときのやりとりと同じように具体的な表現を避けて「何か悪いことをしてるんだよ。とってるんだよ。」とだけ説明します。弟は、「とってるの?」と聞き返します。恐らくここでもその行為のみに着目したのであろうと思われます。そして最後に兄にが、「お魚は」と言ったしゅんに「カワセミ」が飛び込んで来ます。
 この一連の場面に、かなりの文字数を割いているので、詳しく見てその本質を考える価値は十分にあると思います。
 私が特に気になってしまうのが最後の「お魚は」の仕掛けです。ここで、読者は兄のカニが何やら魚にまつわる重要な発言をしようとしたに違いないと思わされます。「クラムボン」といい、他の様々な部分でもそうなのですが、宮沢賢治自身がこの作品だけはひたすら具体的な何かをあえて隠した形で表現したということは間違いないでしょう。では、一体何が隠されているのか考えます。
 「お魚」のとっているものについては、「餌となるもの」であるというのは、容易に想像することができそうです。少なくとも弟の解釈では、「クラムボン」を何か目の前に存在する笑ったり殺されたりするものと捉えたようなので、そのままそれらが魚にとられてしまったと理解した可能性が高いです。
 ただ、宮沢賢治があえて隠していら事実があるとするならば、魚が捕食をするということをあえて隠す必要性があるのでしょうか。他の作品では、動物の捕食に関して否定的な賢治の考えや思いが非常に分かりやすく直接的に語られているし、この「やまなし」においても明らかにカワセミが魚を捕食しています。わざわざもったいぶった形で食物連鎖の形を示すとは考えにくいです。
 

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