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濁らせてはいけない水    :超えられない壁

「トシヤさんは何故死のうと思ったのですか?」

タチバナさんの目は、底の見えない水面のようだった。落ちたら浮かぶことができずに、死ぬのではないかと思うほどだった。俺が死ぬことを連想するのは滑稽だ。ただ、そう思ってしまうほど、彼女の目は深い。俺は自分に嘘をついている。その事を彼女に見透かされているような気がした。
死のうと思った理由なんてわからない。否、わからないふりをしておきたい。彼女に問われても、俺は何も考えたくなかった。

「あの、すみません。わからないのです。それに、答えたくないです」

彼女はスマートフォンを耳にあてながら、俺と『1回目の俺』の通訳をしてくれている。それは俺が提案した事だ。そうすれば、万が一生きている人間がこの光景を目撃しても、道端で長電話している若い女という違和感だけですむ。独り言よりかは幾分かマシだと思った。
彼女を巻き込むのは、よくない事だと俺は思い始めている。本音では『視える人』に出会えて、会話できる事は嬉しい。しかしながら、彼女は生きている。死んだ人間と話をしたところで、彼女にメリットはない。
彼女はこの状況を受け入れて、不気味なぐらい協力的だった。俺が言うのも変だが、幽霊なんて気味が悪いだけだ。あの部屋を事故物件にした事は申し訳ないと思う。彼女のような人でなければ、何があったかを知って、203号室を借りる事はできないのだろうな。

「トシヤさん。サクラさんの事は残念です。でも、正直になれば、あなたは自由になれるそうです。そして、彼女の元に行きましょう。サクラさんは、あなたと同じように、場所に縛られているのです」

サクラが自殺した。
その事実を予測していながら、それが外れてくれたらいいと俺は思っていた。自分の行動が、彼女にきっかけを与えてしまうのではないかと躊躇っていた事も事実だ。
死んでから3年間、俺は自分が自殺した理由を考えている。しかし屁理屈ばかりを思いつく。禁煙しているのに、「最後の1本」といって吸うタバコのようなものだと思ったりする。論理的にそれをした理由を説明できない。そうしたいから、そうなっただけだという暴論を思いつく。
怖いんだ。認めるのが怖い。「やっぱり生きていればよかった」なんて思う事が怖いんだ。
サクラが自殺した原因のひとつが俺だと認めたくない。

「あの、こちらのトシヤ君が言っているんですけど……」

俺には『1回目の俺』が何を言っているのか、本当に聞こえない。そこにいるという確証もできない。それなのに、タチバナさんは献身的に俺達の話を聞いてくれている。そればかりか、サクラを見つけに行ってくれるとも言っている。それがどういう事なのか、タチバナさんはわかっているのだろうか。

「タチバナさん。寒くないですか?大丈夫ですか?こんな事に巻き込んで申し訳ないです。俺が言う事ではないですが、生きている時間は大切にした方がいいですよ」

俺は何を言っているのだろう。自殺した人間が言う事ではない。それに、気をつかっているようで、人の神経を逆撫でるような事を、俺は口にしている。俺は最低な奴なのかもしれない。

そうか。

俺は人の事を心配しているふりをずっとしてきたんだな。

それで俺は疲れたんだな。
俺はいつだって自分以外の人間の事を気にしていた。母親が苦しんでいるのを助けてあげられなかった。俺に『トシヤ』という名前をつけた母親に、俺は許しを与えられる存在ではなかった。そう思う事が辛かった。

「あたしの事はいいんです。寒くないです。あの……トシヤ君が言っているのは、『ごめんなさい』なのです』

俺は戸惑った。『1回目の俺』が現れてから、彼がタチバナさんに事情を話して、彼女が俺に同じ事を伝えてくれた。『1回目の俺』は、俺をずっと見守ってくれていたらしい。それは有難い事だったと思う。特に7歳の時、道路に飛び出そうとした俺に「危ない!」と言ってくれたのは彼だった。死んだ人間が、生きている人間にできる事はない。死んでいる俺はそれを知っている。彼は俺を助けてくれていたのだ。それなのに、俺は自殺してしまった。俺の方こそ申し訳ないと思う。彼が謝る事ではない。

「あの、俺、自分が嫌になったのです。今だってそうです。言葉を選びながらも、『ズレている事を言っているのではないか』と思っている自分が嫌なのです。人に気を使っているようでも、常に自分の事しか考えてきませんでした。仕事やプライベートが順調なほど、俺は周りに嘘をついているような気になっていたのです。突発的ではなかったんです。空気を入れすぎた風船のように、破裂したんです。俺は、自由になりたいです。俺は、サクラに謝りたいです」

もしかしたら、俺は生まれてからも、死んでからも初めて、自分が本当にしたい事を口に出したのかもしれない。
その時に気がついた。
想像通りの少年が俺の目の前にいた。
俺は、動けるようになっていたのだった。


つづく




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中島亮
一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!