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フルヴェン沼:耽溺から解脱まで

沼にハマるって、楽しいですよね。私もがっつり沼にハマってました。10年くらいwずっと沼っててもいいんですけど、沼りすぎると失うこともあるかも。というわけで今回は、沼にまつわる個人体験を書いていこうかと思います。

フルトヴェングラーとの出会い

「ベートーヴェンの交響曲を知りたい」

そう思ったのは大学1年の頃。当時、ピアノはちょっとは弾いていて、ベートーヴェンのピアノソナタも(弾けないけど)聴いていました。悲愴とか月光といった「重くて偉大で壮大」なものが、彼の交響曲にもあるんじゃないかと思って。

あの頃は、ジンマンとトンハーレの録音が高評価だったのでそれを買いました。5番を聴きました。何も感じませんでした。「これが悲愴や月光を書いた、あのベートーヴェン?」と思ってしまったほど。

全然悪い演奏じゃないんですけどーーー!過去の自分は今よりもっとアホだった

しょーもないリスナーだったことはさておき、ベートーヴェン交響曲を聴く冒険は早くも頓挫します。一方で、指揮者に対する興味は上がっていました。

このDVDにハマりました。みんなそれぞれ個性たっぷりなんで、目をキラキラして見てたんですが「こいつはなんなんだ」と思ったのはフルトヴェングラーでした。

インタビューに答えていた人のコメントもよかった。メニューインは「固形の音楽を作るのはそれはそれで複雑になるけど、フルトヴェングラーが作ったのは液体」(意訳)と言ったり、元フィルハーモニアのコンマス、ヒュー・ビーンは「クレンペラーはオケの細かい精度はオケ任せだったけど、フルトヴェングラーはそもそも精度を求めていなかったようだ。アメリカンなむち打ちのようなパワフルなトゥッティは求めてなかった。もっと重量、というか重々しさが欲しかったんだ。」(意訳)と言ったり。

そんなコメントの後に来るのが、マイスタージンガーの冒頭です。

いかんせんオーケストラをあまり聴いてきてこなかったので、その冒頭が重いのかどうかはよく分かりませんでした。ただ、いつ入っていいか分からない棒振りにはかなり魅了されました。

「じゃあ彼のベートーヴェンはどうだろう」と思ってレビューを見てみると、彼のスタジオ録音の評判がよくないので一旦保留。数か月後、東京に行ったときについにライブ録音を手にしたんです。

これこれ!

帰ったら、聴く前に(なぜだか分からないけど)ライナーノートを先に読みました。そこにはベートーヴェン5番の3楽章から4楽章へ行くときの引っ張り方がすごいとか、第九の超高速ファナティックなコーダとかに言及していました。そこで曲そっちのけで5番の3楽章から聴きました。

一発でやられましたね。

当時はピアノは丁寧に弾かなければならないとか、楽譜に忠実にとか言われてきた身からして、「え、こんなことしていいの?」という感じでした。その効果はもちろんですが、それより、楽譜をここまで曲げるというか、自分の思っていた解釈の範疇を超えていることをしている彼の演奏は、私の中では革命的でした。

沼に入った音、聞こえました?

心地よい沼

フルトヴェングラーの魅力はたくさんあると思いますが、私が一番「うおおお」ってなるのは『曲の構造に合わせてドンピシャでテンポを上げ下げする』ところです。

さっきのベートーヴェン5番もそうですが、もちろん他にもあります。

  • ブラームス1番の最終楽章(メインテーマが静かに出てきたら、フルトヴェングラーは徐々にテンポを上げていきます)

  • ブラームス2番の第一楽章(1番の最終楽章と同じ感じ)

  • モーツァルト「フィガロの結婚」序曲(最後のコーダを盛り上げるストリングスのカノン的エントリーのところでテンポを上げていく)

  • バッハ・ブランデンブルク協奏曲5番第一楽章(キーボードソロの結構手前から少しずつテンポを落として気づいたらピアノ一台になっている。。。これ聴いた時はもうなんか、一回死んで生き返ったみたいな感じがしました)

次第に思想はハードコアに

そんなこんなでどんどんCDはたまっていきます。フルトヴェングラーの場合はリマスタリングの違いも確認したいということで同じ録音だけど違うリリースというのをたくさん聴き比べました。

そこから派生して50年代より前のオーケストラ録音やソリストの録音も結構聴くようになりました。クラシック音楽の聴き方が分かってきた気がして、ベートーヴェンのピアノソナタ全集は新旧ともにたんまり聴くようになって、甲乙をつけるようになりました。

一方で(当時は気づいていなかったが)、聴くものがほとんど一緒になりました。交響曲だったらベートーヴェン・ブラームス・ブルックナー、オペラだったらワーグナー。他も聴いていないわけではないんですが、レパートリーで冒険することはほぼなくなりました。

これも当時は気づいてませんでしたが、他の演奏を聴く場合、基本フルトヴェングラーと比べます。比べるどころか、フルトヴェングラーの演奏・解釈を正当化する聴き方ですね。だから他の演奏のよさを受け入れなかったり、スルーしたり、見て見ぬふりをしたりしてしまっていたわけです。

フルトヴェングラーに「演奏は自由だ!」と教えてもらったはずなのに、フルトヴェングラーしか受け入れられない「フルトヴェングラー原理主義者」みたいな状態になりつつあったのです。

そんな体制もほころびが出始めます。ある日、知り合いに、どれだけトスカニーニ(フルトヴェングラー・ファンの敵!敵!敵!ww)がひどいか確認しようと思って、トスカニーニによるベートーヴェン8番(ほら、またベートーヴェン聴いてる)をかけたんです。

まあさっきのビーン氏が言ってた「アメリカンなトゥッティ」はもちろんあるんですが……。いい演奏だったんですよ。1楽章で、再現部に向かってリズムを刻むドライブ感。"嫌いであるべき演奏"を素直に受け入れていました。

フルヴェンは好きだけど

その後、仕事が忙しくなるなど、自分の人生に余白がなくなってきて、リスニングライフが落ち着きました。

最近になってまた色々聴くようになったんですが、何でだかよく分かんないんですが、フルトヴェングラー以外のものがほとんどです。

で、前より楽しいです。

"フルトヴェングラー以外を認めない批評家"ぶらなくてよくなって、気分良く聴けます。もちろん何でも受け入れるわけじゃないです。好き嫌いはあります。時には過去のような頑固ささえあるでしょう。

そしてフルトヴェングラーを捨てたわけでもないです。本当の意味で私をクラシック音楽好きにしてくれたのは彼の演奏であることは紛れもない事実。そして彼の演奏の多くは、今聴いても身震いします。

最後に買ったフルトヴェングラーBOX。特段新たな発見があったわけではないが、BPOオフィシャルから出ているBOXは欲しかった。ライナーノーツがまさかのリチャード・タラスキンでびっくりした。

ただ、奏者ではなく演奏に耳が行くよう気を付けるようになりました。もちろん優れた演奏を多数残した名指揮者というのはいます。が、だからと言ってそんな指揮者を偶像化しちゃうと、また頭でっかちになっちゃうかもだし。なるべくバイアスなしで知らない奏者へも耳を傾けられるように。大事なのは演奏・録音そのものなんだ。誰がやったかは後回しでいいんだって。

フルヴェン沼にハマった人なわけだから、意識してないとまた誰かのファンになっちゃって、演奏を演奏としてちゃんと聴くことができなくなっちゃうのは嫌だから、これからも気を付けていきたいなと思ってます。

今日はここまで。それではまた!

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