姉妹
姉妹
胡桃
母の姉である市川の伯母は、私が嘘をついた話をする。親戚の集まりだったか、たんに家族同士の会食の場だったか、伯母はことあるごとにその話をみんなにした。
私が小学生高学年の頃、伯母の家の鏡台か、テーブルに置いてあった百円硬貨、二,三枚を私が見つけて、「お金あるから、駄菓子屋さんへ行こう」と従兄弟たちを誘い、そのお金でお菓子を買った。そのあと、そのお金が実は伯母のお金だとばれたという話である。
私には、盗ったという記憶はないが、伯母の話から、そんなこともあったかもしれないと、他人事のように聞いていた。でも、胸の中で「なんで、そんなことをみんなの前で話すのだろう」と納得できない澱みがぶくぶくした。それでも、黙っていた。不思議と、普段は正義感の塊のような母から、お金を盗ったことを怒られた記憶はない。
私は、小学校二年生の時に父を亡くした。働くことになった母は、何を仕事にするかと考え、東京の着付け学校に通って免許を取った。母は、和裁も洋裁もできて、着物が好きだったから呉服屋さんで働こうと思いついたようだ。研究熱心な人なので、着付けの腕もピカいちに優等生だった。
着付けの免許をとると、千葉のデパートの呉服屋さんに勤めることになった。ただ、デパートは、サービス業である。土日は休めない。夏休みだってあまり取れない。私たちは、母が運動会に来ない生活が当然となる。休みの日には、母のデパートへ行き、本屋やおもちゃ売り場で過ごし、お昼には食堂でお子様ランチに大きなソフトクリームを食べさせてもらうのが楽しみだった。ときどき、呉服屋を覗いては、反物を見せながらお客さんと話しこむ母の姿を見た。いつも髪をアップに自分で結いあげ、きちんと着物を着る母があの頃は自慢だった。
そんなふうに母は忙しいので、私たちは市川の伯母の家に夏休みや冬休みは預けられていたようだ。少し年上の従兄弟二人がいたが、あまり遊んだ記憶がない。伯母の夫は、築地で働いていた。朝早く出て、夕方は早い時間に家にいた。皆が夕食を食べる前から、マグロのお刺身で日本酒を飲んでいた。伯父は、静かで冗談を言う訳でもなく、印象が薄い。ただ、毎日マグロを食べる。それが伯父の楽しみだった。伯父は、私が二〇代の頃病気で亡くなった。
そんな市川の家で、私は伯母のお金を盗んで、駄菓子を買った。
駄菓子屋さんの記憶はうっすらある。葛飾八幡宮という大きな神社の近くだったと思う。そのあたりはまだ、今ほど家は密集しておらず、伯母の家の前は小さな掘りで水が流れていた。小さな木の橋を渡って木のくぐりを抜けて家に入る。記憶の中の市川は昭和の風景そのものである。
私が嘘をついた話は、二〇代になっても言われていた。私は嫌だなあ、という気持ちで黙っていた。何いつまでも、そんなこと持ち出すのよ。怒りの噴火はなく、ぶくぶく溜まっていく気持ち。
伯母は、母の姉だけど、母とはぜんぜん似ていない。顔は少し似ているが、性格が違う。昔から、大人しい姉と活発な妹だったらしい。伯母と母の下には、弟が四人いる。実家は山形の田舎。家業は下駄屋であった。母は、祖父について下駄を作るための桐を探すために山に入ったり、下駄売りについて行ったりという父親っ子であった。そうして、祖母の「学校を休んで家を手伝え」という言葉を聞かないで、学校へ行ったそうだ。当時は、女の子は学校で勉強をするより、家の手伝いをさせられることが多かった。母の分まで、ひとりで家の家事や弟たちの面倒をみていたのは伯母であった。
母は、常に向上心の高い人である。私は、母に弱音は言わない。一〇倍ぐらいのお説教をされそうだからである。母は、正義はいつも我にありという感じで、人の話を聞かないタイプである。
伯母と母は、集団就職で都会に出て働きはじめたが、母は、組合活動をしたり、習い事をしたり、まさに母らしく生活を楽しんだ。伯母は、母に比べて活動的ではないし、器用でもなかったようである。趣味らしいものも特になく、今でも縫い物は母に頼んだりする。
たしかに、伯母に得意なことがあると思い出せない。ただ、娘のいない伯母は、私をかわいがってくれていたと思う。意地悪された覚えもない。そんな伯母が、私の嘘の話をするのは違和感があった。
自分が子どもを持ってみると、二、三百円盗って駄菓子を買ったなんて、たいしたことではないようにと思う。もちろん、けじめでお説教は必要だが、私にきちんと言えばいいことである。なぜ伯母は、あの嘘の話をみんなの前でするのだろう。
そうして、ふと気がついた。伯母が、私の嘘の話をするのは母の前であった
伯母は若干得意そうだった。
伯母の話は、私ではなく母に向けられた話だったと気がついた。いつも姉より優秀な母が未亡人となって、伯母は、少し母を見下すようなところが、あったのではないだろうか。
いまでは未亡人という言葉も聞かないが、あの頃は、母子家庭は学年に私一人しかいないという時代だった。私も弟もそこそこに勉強ができる普通の子どもだったので、母はよく人から「母子家庭なのに、いい子に育って」と言われたらしい。まだ、母子家庭への偏見が強い時代だった。
伯母は、未亡人になった妹に同情しながらも、かすかな優越感をもったかもしれない。しかし、未亡人になっても母は強かった(強すぎた)。外目には元気で子供たちはおとなしい、けなすところはなにもない。その母を軽くいじめるには、私の嘘の話はもってこいだったのではないか。伯母の自慢の息子に比べて、私は母子家庭の子だから、嘘をつく。そんな意味があったのかもしれない。深読みなのかもしれないが。そう思いつくと、なんだか納得できるのだ。
それを母も気がついていたが、世話になっていたので何も言わなかったのだろう。あの伯母の嘘の話に一番傷ついていたのは母だったかもしれない。
伯母が、私の嘘の話をしなくなったのは、伯母も未亡人になった頃からだった。
今思うと、私が母の強さを煙たがるように、伯母も嫌な思いをしたことがたくさんあったのだろう。私の嘘の話は、伯母のかすかな母への抵抗と思えば、かわいいものだと思う。
姉妹とはおかしなものだ。私の嘘の話はなくなったが、お互いの息子やその孫たちを自慢しあい、その嫁たちの愚痴を言いあい、慰めあっている。
伯母は、私と二人のときは、「あんたの母さんは、相変わらずだね」と言い、私もうなずく。母は、「姉は世間が狭いから、話してもつまらない」と私に言いながら、姉が出不精だからと、新しい歌舞伎座を見に誘い、旅行に誘って一緒に出掛ける。
仲がいいんだか、悪いんだかわからない。
私は、そういう姉妹の間に座って、話を聞く係である。
先日、帰省した折に、伯母と母を連れて鎌倉から江の島へと遊んだ。青空が広がる夏らしい日だった。観光船に乗ると母は、「ハワイみたい」と、自分だけハワイに行ったことがあるので言い、伯母は、「こんなのひさしぶり」とはしゃいでいた。
江の島の海の見えるテラスで休むとき、私がビールを注文すると、母は「女が昼からビールなんて嫌だね」と言い、伯母は「胡桃ちゃん、飲めるからいいよね」と笑う。
江の島の道を、少女のように肩を寄せ合う八〇歳に近い姉妹の後ろから歩き、伯母や母に対する心の澱も消えていくのだ。なんか性格が違うふたりであるが、もしかしたら、姉妹っていいものかも、と女きょうだいがいない私は思った。