鳥たち
鳥たち
胡桃
この春、鳥たちがうるさかった。山の家の外壁、とくに東側がアオゲラのおかげでボコボコに穴が開いている。一度、息子が帰ってきたときに、穴に木の板を打ちつけて修繕してもらったが、またすぐに穴を開ける。家の中で、コッコッコッと音が響くと裏口に飛んで行って、ドアを開け「コラー!ダメでしょう」と怒る。アオゲラは、ケッケッケッと鳴きながら、隣家との境にあるカラマツの幹の陰に隠れようとしている。アオゲラを叱っても甲斐もない。
本当は網でも張ればいいのだろうが、わたしたちは何もしない。あと一〇年もすれば、この家も空き家になって朽ちていくだけだろうという諦めがある。
網といえば、去年、大豆の種を一カ所に撒いて網をかけていた。芽がでると鳩が食べに来るのだ。ある程度大きくなると食べられないので、少し伸びてから移植する。朝、畑に行ったら、畑から大きな鷹が飛び立って、びっくりした。何をしていたのかと思ったら、網に鳩が二羽ひっかかってしまい、それを食べていたのだ。一羽は羽をむしり食べられ、二羽目をもって行きたかったのに、外れなかったのだろう。そういうわけで、外壁に網をたらしても、小鳥が引っかかり、鷹に食べられるという惨劇を見るはめになるかもしれない。
話が脱線した。鳥たちがうるさい話である。アオゲラがあけた穴に四十雀が巣をつくるのである。今年は二組が子育てをしていた。たぶん断熱材の入っている内壁の空洞にいるのだろうけれど、朝から騒がしいのだ。わたしが見に行くと、チチチとモミジの木に飛んで隠れる。写真を撮ろうとそっと近づくが、なかなか素早くて写真が撮れない。小さくてかわいい鳥だが、子育て中は忙しくうるさい。
別にもうひと家族いる。家の西側のひさしにも大きな穴が開いている。この穴はアオゲラの仕業ではなくどうして開いたかわからない。そこに毎年椋鳥が巣をつくる。
二階といっても屋根裏部屋なので、わたしのベッドの上あたりに椋鳥はいる。
しばらくして雛がかえったようだ。ここからがうるささが高まる。何羽の雛がいるのか。
私は早寝なので日が昇る前に目を覚ましてしまう。そのときに天井のほうでも、もぞもぞと動く気配がする。椋鳥たちも起きだしたのだ。陽が射したとたん、鳴きはじめる。「腹減った腹減った」、子どもたちが大騒ぎしている。椋鳥母さんは餌をとりに飛び出していく。子どもたちは元気がいい。いちにち鳴いている。でも、鳥は暗くなると寝るようで静かになる。早寝なのはありがたい。
窓の外で椋鳥が喧嘩をしていることもあった。巣づくりの場所争いだろうか。我が家は鳥たちに人気物件なのかもしれない。
この同居も七月には静かになった。椋鳥の子どもたちも巣立ちをした。いまはどこで暮らしているのだろう。ツバメが人家に巣をつくるのは、安全のためだと聞いたことがある。うちの店子たちも安全を求めているのだろう。
鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに 金子兜太
この句は高層マンションの住人を描いたのだと思うが、わたしも盛岡で仕事しているために、留守勝ちになる。なんだか、鳥たちが正当な住人で、わたしが居候のようだ。
秋になると、鳥たちの顔ぶれもかわってくる。玄関前の大きなヤマモミジの枝に板を渡して餌置き場をつくっている。モミジの葉が落ちた頃に鳥たちがやって来て、餌がないぞと要求するから、慌てて餌をおく。この場所を知っているとは、去年の小鳥たちなのだろうか。
間取図のコピーのコピー小鳥来る 岡田由季
山に家があるが、ほとんど盛岡との二拠点生活だった。盛岡だけでも四回引っ越している。松園に住んだときも鳥は身近だった。屋根のアンテナの上で郭公が鳴いて起こされたものだ。とりのなんこ氏の漫画『とりぱん』は、全巻揃えて読んでいた。漫画の舞台も松園や高松なので、「わかるわかる」と共感して読めた。
しかし、わたしは鳥に詳しくない。夫は詳しいので、「今来ている腹が黄色の鳥はなに?」と聞く。聞いてもすぐ忘れてしまうので、何回も聞くことになる。
ある年、柿を縁側にいっぱい干していた。朝、きれいな鳥が来ていたから、夫に名を聞いたら「オナガ」という。そのまま出かけて、夕方に帰ると、縁側の干し柿にオナガたちが群れて食べまくっていた。それはそれはカラフルできれいだったが、干し柿はほとんど残っていなかった。すごい食欲である。鳥たちはたくましい。
※ 「草笛」No.517に掲載
※3枚目23行