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簡易的ネコ化奨励論

【5582文字】

Let's embark on a journey with only the "present".

ウチにはネコが2匹います。

そりゃカワイイのです。普段からカワイイカワイイと溺愛し過ぎて、これ以上どう可愛がればいいのか困るほどなのです。いったいこいつらの何がどうカワイイのか何度も考えてみるのですが答えはハッキリしないままです。
人間同士の恋愛の場合はその最初の段階でなんだか正常ではない状態に陥り、完全に精神に異常をきたした発言や行動を呈したりしますが、それとはまたちょっと違います。僕は子供がいませんのでその可愛さの本当のところを多分知りません。したがって孫もおりませんが、孫のいる友人に聞くと「子供と違って無責任でいられるので単純にかわいい」といいます。このカワイイはきっとネコ、イヌなどのペットに対する特有のカワイさに似てるんじゃないかとも思いますが、孫と違って当然日々の健康や環境、精神的な配慮などの責任は飼い主にある訳です。

ペットにはもれなく

この飼い主という存在があり、飼い主にはペットの生活環境を整備する義務があるわけです。食事や飲み物を用意し、くつろげるベッドや清潔なトイレなんかも準備し、遊べるおもちゃやそれを試せる機会も提供し、飼い主自ら適度な運動も促します。だからこそペットがはしゃげば飼い主も心の底から嬉しく思い、ペットが何か悪さをしても「コラ!」と形だけの説教をするも、いつも最終的にはその可愛さに飼い主の方が折れてしまうのです。健康状態も日々厳しくチェックし、万が一けがや病気の際は無保険の高額な医療費など1mmも厭うことなく飼い主が全額支払います(当たり前)。そしてペットが亡くなる最後の時などは、まるで己の四肢の一部を失ったように悲しみに暮れ、悲しみが癒えないまま場合によっては精神を病んでしまう事だってあるのが飼い主とペットの関係なのです。それもこれも彼らがカワイイからなのです。カワイイというのはまったくもって罪なものです。

ネコは3歩歩くと

全部忘れるとよく言われます。それは大袈裟な表現だとしても、確かに記憶力が良いとは言えない気もします。人間の場合この記憶力を誇示し頭の良さをアピールするという、非常に頭の悪い傾向があります。そんな人間の価値観で他の動物を下に見るという謎の虚栄心が今もなお蔓延る人間界ですが、はたして猫は下等動物なのでしょうか。僕の場合言うまでもなく、猫はかわいいだけではなく合理的で潔い非常に高等な生き物だと思っています。ウチのネコは毎日決まった時間になるとやって来てチュールをねだります。ウチの子は5歳ですがもう4年以上毎日です。これはもちろん記憶がなせる業ですよね。人間に虐待を受けた動物はその事を忘れられずにトラウマとしてそれらの悪夢を記憶しています。この様に身に危険が生じたり、よほど楽しい事だったりすればネコだってちゃんと覚えています。ただ人間と違いそういうこと以外の細かな事なんかはいちいち気にしてないという事なんでしょう。

人間はその大脳の

大きさによって記憶力は確かに他の動物よりあるのかも知れません。ではその人間はネコと違って、大脳に記憶された過去の経験を最大に生かして生きているのかというと?どうです?生かしてます?少し怪しくないですか?僕は全く自信がありません。人間だって普段その程度の記憶でしか生活してませんよね?昨日食べた晩御飯をスッと答えられませんもん。自分自身を顧みてみると、結局その時々その場その場をやっとこなして生きている様な気がします。問題はそのこなしている内容なんでしょうね。

以前、ある記事で

「ネコは過去にも未来にも生きていない。今その瞬間にだけ生きている」というのを読んだ事がありました。これを読んだ瞬間に「大賛成!」と声に出しましたね。つまりネコは必要以上に過去に囚われず未来を恐れないという事です。人間はむしろ現在の瞬間瞬間を、過去に縛られ未来を危ぶむ事で埋め尽くしてしまいます。なぜこんなにネコに惹かれるのか、その理由がなんとなくここにあるようにも思うのです。人間は今に生きる潔いネコの生き方に憧れているのかも知れないと、常日頃から思っていたのです。

「過去という事実がある」

と人間達ならそう考えます。現在は過去の事実が積み重なって出来ていると考えています。人間が事あるごとに過去を引っ張り出して来て「あの頃は良かった」だの「あの時の賠償責任を果たせ」だの言うのはそのせいでしょう。昨日起こった事で今日の仕事が増えたり減ったり、以前経験した事のある事が役に立ったり立たなかったり、人の生涯というのは過去の事実が重なって今を形どって行きます。明らかにそれらの過去は事実であるわけです。あまりにも当たり前の事を言っていて、むしろ分かりにくいですね。しかし「唯一無二の事実」って言いますけど、本当に人間全員の認識がピッタリ一致してるのでしょうか。どんなことでもいいんですが、例えば兄弟2人がキャッチボールをしている場合、弟の投げた球が逸れ兄が捕球できなかった場合、弟はうまく投げれなかったと思うのか、少し逸れたが捕れなかったのは兄ちゃんだと思うかで弟が思う事実は大きく変わります。一方兄の方は捕ってやれなかったと思う場合と、捕れない球を投げやがってと思う場合です。どちらがどう思うかで両者の認識、つまり「事実」は大きく異なってきます。

ネコはそんなものに

こだわらないという事です。兄の立場が猫だったら、捕れなかった瞬間からもうそんなことはどうでもよくて、あっちへ転がる球を追いかけることに集中します。行きたい先に邪魔なものがあるなら飛び越えて行けばいいし、途中で美味しそうな魚を魚屋さんで見つけたなら球なんて放っておいて店先の魚をちょいと失敬してしまえばいい。その場合過去になった球のことなんてどうだっていいんです。球のことを忘れたんじゃなく、過去はどうだったとかその先どうなるなんて考えません。今邪魔だから飛び越え、今美味しそうだと思ったから食い付くのでしょう。勿論このネコが邪魔なものを飛び越えられるのも、魚を失敬して走れるのも子ネコ時代には出来なかったのかもしれません。人間的にこれを分析するなら、このネコの過去に於けるどこかの時点で、塀を飛び越えられる身体能力を促す必要な経験と知識が備わった、という事でしょう。この人間の思考方法はものすごく過去偏向型で、現在のことは完全に見落としています。でも物事は常に現在起こっているのです。「過去があるから今がある」などというのですけど、ネコからすれば過去はもう「過ぎた事」「終わった事」「今とは関係のない事」であって、「現在さえあればいい」訳です。事実は今起こっているのです。今現在、問題にしている事ややりたいことをするにあたって、過去がどうだったかなんて考えません。今やりたい事が出来ればそれでOK、今感じたことがすべてで過去が事実だろうが何だろうがどうでもいい事なのです。ネコはその都度都度の今をただ生きているだけで、過去の事実を今になってどうこうしようとか1mmも考えてないでしょう。
そう言われたらそうだなあと思いますよね。塗り替える事の出来ない過去の事を、今更グズグズ考えても仕方ないと言えば、確かに仕方ないですよね。それより今をどうするかの方が絶対重要です。「今の気分が良い」という状態を常に達成できるなら、この先の未来ずっといい気分のままですからね。

ところがネコには

未来という概念さえないかもしれません。どうしてもネコを見ていて未来を案じたり、希望を託したりしてる風には見えないのです。「今は甘んじて野良猫をやっているが、いつか飼い猫になって食えない不自由から抜け出すんだ」などとは絶対に考えません。明日のためにあらかじめ何かを準備したりすることもありません。今疲れてしまって眠たければ寝るのだし、今お腹がすいたのでご飯を探しに行くのです。人間的に解釈すれば寝るのも食べるのも「明日の活力や準備のため」となるのですけどね。

「未来」

という言葉には期待感があります。僕が子供のころから未来という言葉はとてもSFチックで期待に満ちた印象で、その響きは今でも多かれ少なかれ「未来」という言葉はまとっています。しかしよく考えてみれば「明るい未来」っていうのはつまり「今」はそれより暗いのだと言っているようにも聞こえます。「今よりマシにしなくてはならない」という義務感もあるのかもしれません。未来という言葉がずっと前向きで明るく感じているということは、つまり今は常にダメな状態と言っているに等しいのかなとも思ってしまいます。もし昨日より今の方が少し良くなっていたとしても人間はきっとその今には満足せず、次に来る時代に期待をしているということなのです。あの頃は良かったというように「今現在」は過去よりダメで、未来よりもダメというこは、常に現在は歴史上最悪最低だということになってしまいますね。ネコの思考法とは真反対です。

そういえば

体力も気力もまだ全身にみなぎっていた若かったころ、まったくその場の思い付きだけで友人と突然何日も旅に出たり、翌日の仕事なんか構わず朝まで飲んで熱く語ったりしたことが何度もありましたっけ。なんでそんなことをしたかって思うと、体力が有り余っていたというのもありますけど、やはりその時の楽しかったり熱くなっている「この空気感」を崩したくない、このまま継続したいという意識が働いていたと思います。そんなことが許された若さというのはなんともいいものです。そんなイレギュラーな思い出ほどよく覚えているものですし。しかし結局それで職場の上司に怒られたり、なけなしの生活費を散財する結果になるわけです。そうこうしている内に「社会人としての責任」とか「他人に迷惑をかけてはならない」などの自己規制をかけていくのです。同じ轍を踏まない、明日のために、未来のために、痛い目に合わないように、などと言ってより多くの保険をかけていくことが僕らが言っている「未来」なのかもしれません。

こう書いている

僕自身でさえ過去や未来を考えても「今」を考えずに生きています。過去を悔い改め、未来の準備に翻弄する現在の僕らは、その時その瞬間感じている自分自身の抑揚や欲求をどこへやっちゃうんでしょうね。人間の生涯ですから悲しいことや腹が立つことがあるのはいいんですが、そういった抑揚を出す場面が過去と未来につぶされている気がします。もう終わったことやまだ始まってないことで現在を浪費してしまい、今感じなければならないことの多くを見逃している気がします。過去に学び未来につなげるのは幸せのためだったはずですが、その幸せを感じられるはずの「今」は常にそれどころじゃない状態です。なんだか本末転倒ですよね。

その点ネコは違います。

家族か兄弟か親戚かは分かりませんが似たような柄のネコの集団が屋根の上とかで日向ぼっこをし、グデっとなっている姿を時々見かけますよね。見ているこっちをもホッコリしてしまうその姿はどう見ても不幸せそうではありません。「日差し無茶あったけー」とか「すげぇ眠みー」とか思ってるんでしょう、皆幸せそうにしか見えません。同じようにどこの飼い猫だって飼い主が用意した専用布団や猫ベッドの上でグデっとなってます。彼らもまた無茶苦茶幸せそうに寝ます。この両者は人間でいえばホームレスと富豪の差です。ネコは人間のように他人(他ニャン?)と比べて自分が不幸せだとは考えないんでしょうね。今をどう感じるかがすべてなら今の自分や今の環境を享受し、不服とも不足とも思わない方がいいんでしょうけど、人間にはなかなかそれができません。ネコにとってはあったかければ素直にあったかいと思えることが幸せであって、それ以上どうとかは不要なのです。ネコのように過去や未来というものを意識しなければ不平不満、心配や恐れといったことも大幅になくなることでしょうね。

とはいえ僕らは

残念ながらネコではなく人間に生まれついてしまいました。なのでどうしても肥大化した大脳皮質が過去や未来を引っ張り出してきます。昨日を反省し明日に保険を掛ける日々はたぶんこの先もずっと続きます。いや、それ自体は決して悪いことではないんです。むしろ人間に与えられた特権でしょう。過去の失敗や成功例に手っ取り早く学べるのは人間だけなはず。そうした英知を次世代につなげるのも現世代の役目です。もっともそれがかなり難しく、犯罪や戦争といった重く悲惨なことでさえ未だにこの世からなくなりません。そんな重大なことでさえできないのです。まして個人の反省が生かされないまま未来に突入するなんて当たり前なのです。だからそんなことでクヨクヨしたり自暴自棄になるなんていうのは人間なら当たり前なのです。人間はあまりにも人間自身を買いかぶりすぎたのです。人間なんて言うほど立派なもんじゃありません。大して何もできなくて当たり前なのが人間なんだと思うんです。
なので少しネコに見習ってみたいと思います。ほら、ネコになりたいって、思ったこと沢山あるでしょ?ね?だからやってみたらいいんです。ネコのように暖かい日だまりに行って「ああ暖かいなあ」とか、なんか泣きたい気分だからもうこれ以上は泣けませんっていうくらい泣いてみちゃうとか。過去や未来を完全に捨てて、他人の事なんかでイライラせず、その時の気持ちをそのまま感じたりやってみたりすると、ネコに近づける感覚を味わえるかもしれません。
過去の反省も未来の保険も職場や家庭に捨て置いて、ネコのように今だけを持ち合わせる旅に出るなんて、きっと一番贅沢なことですよね。ちょっと気持ちが疲れているなら、僕は簡易的にネコ化されることを奨励します。