
死向力
【 2870文字 】
「未来」という単語にどういう印象を持つだろうか。ご存知の通り人一人が生かされている時間には当然限りがある。しかもやり直しは一切効かない。どんな瞬間であろうと時間は刻々と進んでいて、生きている生命全ての寿命を削っていく。今より死期に近づいているであろう先々の時間帯、それを我々は「未来」と呼んでいる。
我々は生まれた事が意識できないのと同様に、きっと死ぬ瞬間も意識できないのだろうと思う。今生きている意識を自分で確認できるなら、その喪失がつまり死であろうと想像するのが精いっぱいだ。かと言って意識を失う事が死とは限らない。生きながら意識を失う事はあり得る。では具体的に何を失う事が死なのか、生きる事を客観視し具体化すればそれらを失う事が死であるという定義が出来るはずだ。しかしそれを考えたところで、生により得たものをただ返すだけのことの様な気もする。
死を恐れるあまり未来を悲観するのはあまりにも悲しい。しかし死は必ずやってくる。我々は未来に待ち構える死をどう捉えながら未来を生きるべきか。もし死に向き合う力を備えられるなら、生きる力はもっと身につくのではないだろうか。
人生とはその個体が生きている時間帯の範囲で起こる全ての事を言う。ゆえに生前や死後に人生はない。では母体の中で未成熟な生命を授かった瞬間からがあなたの人生が始まるかというと、その辺りは微妙なところであろう。そこで重要になるのが「意識」ではないか。卵子の細胞分裂が始まったばかりのそれは確かに人命ではあるが、あなたの人生とはまだ言えないような気がする。自意識が芽生えた時にようやく人としての人生が始まるのではないだろうか。
活火山の火口深くドロドロに溶けた溶岩が噴火と共に空へ舞い上げられ、空気や水蒸気などに冷やされ岩や石として地表へと生まれ出たとしても、それには意識がない。ある植物に花が咲き実をつけ種を地表へと落とし、その種から根を張り大地の養分を吸い上げ、若芽を出し葉を付け枝を伸ばし再び花を咲かせても、それには意識がない。それでも石や岩とは違い植物は命あるものといえる。ただ人の様な意識は持ち合わせてはない。
では意識とは何か。これは人類始まって以来の紐解けぬ哲学なのではあるが、それを承知であえて言わせてもらうなら、意識とは「自分を感じる事」なのではないか。言い換えるなら意識は自分以外を感じる事が出来ないのである。常に自分しか感じられないのだ。もちろん自分以外の他にも意識が存在していることは知っている。それらは大体似たようなことを感じているのだろうという想像も出来るが、実際の所リアルに何を感じているのかは全く分からないのだ。他人の痛みに鈍感なのが意識である。
しかし他の意識を想像する事は自分にとっても大変有効な事でもある。意識する、つまり個である自分をより感じる為には、自分だけを見続けていても全く意味がない。自分とは違う比較対象があって初めて、個の自分の存在をはっきりと認識出来る。外のあれとは違う自分、他の者とは違う意識である。そうやって得られたものが自分という感覚、つまり「意識」なのではないかと思う。そして他の「個」との違いこそが私自身である証拠であり、その個の違いこそが「個性」なのだ。
そうやって唯一感じられる自分の意識は貴重であり、保護しようという気持ちが強く生じるものだ。それは生への執着と言ってもいい。しかし自意識が高まればそれだけ利己的で傲慢な振る舞いとなり、他の意識はそれを避け遠のいてしまうものだ。他の意識を知ってこその自意識である事を忘れ、己の意識ばかりが高くなればなるほど生への執着も高まるのではないだろうか。かと言って自意識を捨てる事は至難の業であり、多かれ少なかれ意識とは利己的なものだ。であるなら意識とは本来いつも孤独なものであり、他の意識の理解を欲し続けている悲しいものなのかもしれない。意識とはそういうものだろう。
意識がない瞬間は毎晩のようにやって来る。どうせ死ぬなら眠っている間に痛み無く逝きたい、とはよく耳にする。人は誰でも生死に関わらず痛い思いをなるべくしたくはないものだ。まして生命最大の脅威であり不可避の死について考えたことのない者は居ないだろう。誰しも少しでも長生きをしたいと願う。しかしどうしても死なねばならない場合には、なるべく楽にと願えばこそこの世は医療の発達を見て来た。
その根源は宗教にある。医療未発達時代は宗教に癒しや救いを求めた歴史だ。シャーマンがその人の魂にとりつく悪魔を払い除ける。現代人には高度に発達したエビデンス・ベースド・メディシン(科学的根拠に基づく医療)があるので、まじないなんかに何が出来るものかと信じ難く思うだろう。ところがナラティブ・ベースド・メディシン(物語に基づく医療)は科学的医療方法が尽きてしまった患者に大変有効であると聞く。それは決して民間心霊医療という事ではない。科学的知見のあるれっきとした医師が患者と真摯に向き合い、その人それぞれに適合した新たな物語を紡ぎ出し、科学的医療を補完していくというものだ。この方法はつまり患者の意識に直接話しかけていると言っていい。
その科学的根拠は西洋医学的には未解明ではあるが、確かな効果が現れているという。その為には患者と医者の意識が互いの言葉に耳を傾ける必要がある。患者は藁をもつかみたい一心であるが、医者は違う。医者は患者の意識を疑似体験しなくてはならない。それはその瞬間医者も患者と同等の苦しみを味わう事だとも言えるのだろう。そうやって現代にもシャーマンは生まれているのかも知れない。患者はあれほど独りぼっちで死を恐れていた自意識に、寄り添おうとしてくれる意識が居ることに気付く。その事が患者にとってどれほど嬉しく思う事かと思う。意識が喜ぶと静かに死を迎える事が出来るという事実は、今後人類の智彗なればと良いと思う
人生は可能な限り楽しんで過ごした方がいいに決まっている。隙あらば何でもかんでも楽しんだ方がいい。または楽しめる力を養う事こそが人生なのかもしれない。ナラティブ・ベースド・メディシンと同様の根拠レベルなのだが、予防法として精神が明るければ病も寄り付きにくいのではないかと信じている。ファシリティードッグの様に終末患者に寄り添う犬が実際にどれだけの効能を示しているか、人間はもっと知るべきかもしれない。昔から笑いは病を吹き飛ばすという。「病は気から」でろくに医療を受けないのはもちろん論外ではあるが、病との戦いの最終手段は「気を強く」も有り得るという事も忘れたくはない。
人は皆必ず死ぬ。そして死に方は様々で、寿命もそれぞれである。もし決められた寿命の下で少しでも長く人生を楽しみたいのであれば、死に意識を支配される時間が短ければ短い程良いに決まっている。納得し少しでも気が晴れる事なら、意識のあるうちにやれることはやっておいた方が良さそうだ。それこそが死と向き合う力ではないだろうか。より良く生きるためにも死向力を鍛えたい。