やりたいことしかできない
先日、点滅社の屋良さんのトークショーに参加した。六本松の会場に着いて、開始前のトークではじめて屋良さんが出された本を認知した。ふたり出版社ですという話から、島田さんの著書「今日から出版社」を思い出した。
予習どころか屋良さんの存在すら知らない状態で椅子に座っていた。
屋良さんは死が生きる原動力なのだという。
わたしは死がこわくて生きているのに、屋良さんの原動力は死らしい。
うおー、ブッコロすぞ、という気迫でわからない経理や事務処理をやるんだそうだ。めっちゃおもしろい、と思った。
屋良さんはとても華奢、というか細すぎて周りが心配するレベルの風貌なのにとても力を感じる。
この本が最期でもいい!!と思いながら編集をされるのだそうだ。
そうか。
本を出すなんて一大事なんだから、妥協なんてしたらダメなんやと思い直す。
今のわたしは、最初はこんなレベルからかな、と妥協で自身の出す本を想像していた。
でも、そんな生ぬるい考えでは突出できるわけがない。
普通に考えてもそれは当たり前だ。わたしが編集者だったとして、ふたつの作品からひとつを選ぼうというとき、妥協で作ったものよりもこだわりの詰まったものを選ぶだろう。
しかも妥協で作ったものはその妥協が必ず本の雰囲気から出るはずだ。
わたしはハンドメイドを10年やっていたけど、それは如実に作品にも価格にもトークにも出る。
作品を見ただけで、その作家の人となりは見える。これは断言していい。
ただ売りたいばかりで作ったもの、自分を認めて欲しくて作ったもの、ベースのしっかりした大木のような作品まで。
結構わたしはぱっと見でその人がどんな人か、どういうタイプかを大体推測するんだけども、その察知能力は他人に話したところ優秀らしい。
そんな目をもってみる屋良さんは、細い体を震わせながら夢中で話していることがイベント中、とてもよくこちらに響いてきた。
3時間作業すると6時間眠ると言っていたので、こんなイベントをやってしまったら何日寝込むのだろう。
屋良さんの疲労を想像していたら、心配なんだといって今回のトークショーを開催した本と羊の店主の気持ちがよくわかった。
屋良さんは色んなことがわからないらしい。
でもよくわからないから良いのではないか。
よく分からないけど死にそう、よく分からないけどこの本を出したい。
シンプルにきついとか、シンプルにやりたいことがあるとか、そういうレベルでうまいこと鈍感に感情を流していけるのが才能なんだと思う。
才能と言ったら語弊があるのか。
才能だと天から頂いたもの、授かった、受動的な、先天的なニュアンスが入ってしまうから違うと思うけど、屋良さんは屋良さんなりに生きているのだ。
その生き方が結果的に周りを巻き込んで共感を得て、だから屋良さんは人たらしと言ってもいいのかも知れない。悪い意味合いはない。
屋良さんは巧いのだ。
こんなところで初めての文章は終わろうと思う。
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