お菓子を買った。一パックに三個クッキーが入った、三パック入りを二箱。 子どもたちと分けよう、と思って買ったので、家に帰ってすぐに子どもたちを呼んだ。 子どもたちは遠慮して取らないこともあるので、マジックペンで名前を書いた。 むーちゃん、ぴんちゃん、わたし…。 パパの名前はない。 女の子だけで食べて、ちょっとした福繍にしようと思ったのだ。 「名前が書いてあるっ!」 リビングに出てきたむーちゃんがそう言って笑う。 少し嬉しそうな声だ。 最近お菓子をあまり買っていないせいかもしれ
わたしが子どもたちのご飯を手伝わなくなってしばらく経った。 昨日、一番上のきいちゃんがうちに遊びにきていて、わたしは大人用の食事の準備をしていた。 きいちゃんはご飯が足りなかったのか、お腹空いたーと言っていたので、わたしはおかずを多めに作り、誰に言うともなく、「ご飯食べるー?」とキッチンから言葉を投げかけてみたところ、きいちゃん以外に次女のむーちゃんが「食べる!!!」と元気に返事を返してきた。 子どもたちのご飯は一足先に済んでいた。 珍しいなと思いながらも返事の数だけ皿に野
シンシンの好きなところがない、と言ったわたしだけど、シンシンと恋人同士になって驚いたことはある。 ちょっと苦手な人もいるかも知れないので先に言っておくけど、わたしは多分、女の子も好きになる人種なのだ。 女の子のもちもちした肌を眺めていると、ん〜、いかん!となって自主規制をする。 意識はしてなかったけど、本当に幼い頃から、フェロモンや魅力を感じるのは女性なことが多かった。 そういうことに興味のある子どもだった。 だから逆に、男の人のどこを見て気持ちを高めろというのか?!とわ
わたしは今、「わたしは夫が好きすぎる」という本を書いている。 単に夫が好きとか、こういうところが格好いい、なんてことではない。 夫シンシンが好きすぎるあまりわたしは不機嫌を持て余しており、その不機嫌を解消するために、シンシンにちょっとしたふくしゅうを行っている。 ここでは本の内容というよりも、サイドストーリーのようなものを書いていけたら良いなと思っている。 わたしはシンシンが大好きだ。 しかし、本編を読むとわかる通り、わたしはシンシンのここが好きとか、気に入っているとかいう
わたしは色んなものが「すぎる」のかも知れない。 いつも何かしらにハマって、やりすぎて、飽きて捨てて、また探す。 その繰り返しのような気がする。 母には昔、何でもいいから続けられるものを見つけなさいと叱られたものだ。 しかしそんなわたしが今書いている本は、「わたしは夫が好きすぎる」というタイトルの本だ。 夫が好きすぎて自分も夫も嫌いになりかけたので、思考を変えて頑張っていくというエッセイ。 ジョーク混じりのネーミングのつもりだったのに、兼業をする上で会社の上層部に本の内容まで
この世界は報われないことが多すぎると思う。 自分の無力さをこれまで生きてきて何度となく思い知らされてきた。 わたしはわたしの周りにいる優しく繊細なひとたちを救いたい、サポートしたい、とよく思う。 しかし、別の生命体である以上、そのひとたちに強制はできない。 これまでわたしは何度も、こっちの方が楽だよ、という道を色んなひとに示してきた。 しかし、どんなにこっちの方が楽に生きられると説いたところで、そのひとたちは自分の気が乗らない限り、そちらに目を向けることすらない。 怖くな
タイトルが下手すぎる。わたし。 言葉遊びは大好きで、息をするように言葉を紡ぐのに、壊滅的に下手なのが、タイトルづけだ。 歌なら一日あれば書けるのに。 先日そう思った。 詩のようなタイトルも割とできる気がする。 考えて作る言葉はできやすいのに、タイトルづけが本当に下手くそだなと感じるのだ。 ハンドメイド作家をしていたころは、出す作品に全て名前をつけた。 「きみはぼくの月」とか、「今夜、星の雨に濡れ」とか、「夜が来る前の空気はちょっぴり眩しい」とか。 さらに、ぼく月、星雨、夜く
先日、点滅社の屋良さんのトークショーに参加した。六本松の会場に着いて、開始前のトークではじめて屋良さんが出された本を認知した。ふたり出版社ですという話から、島田さんの著書「今日から出版社」を思い出した。 予習どころか屋良さんの存在すら知らない状態で椅子に座っていた。 屋良さんは死が生きる原動力なのだという。 わたしは死がこわくて生きているのに、屋良さんの原動力は死らしい。 うおー、ブッコロすぞ、という気迫でわからない経理や事務処理をやるんだそうだ。めっちゃおもしろい、と思っ