妊婦はつらいよ。
妊婦はつらいよ。
なにがつらいってまず、体調のコントロールが効かない。妊婦の体調不良は一般的な「体調不良」となんか違ってて、違っててというか、状態的には確かに「体調不良」なんだけれども、それへの対処と見通しがこれまでと違っていて、つらい。
妊娠中の体調不良への対処、イズ、とにかくガマン。おいそんなことってあるかよ。
これまでわたしがかかってきた様々な病気、インフルエンザも胃腸炎もコロナも、なにかしら薬があった。万が一、原因が特定されていない体調不良におちいったとしても、第二選択として対処療法が取れた。
こどもの頃に一度だけ、なかなか腹風邪が治らず、困ったドクターが薬を漢方に変えたらスッと症状が落ち着いた、ということがあった。単に治る頃合いだったのかもしれないが、あのときこども心に「なるほど」と思った。なるほど西洋医学にも、合う合わないがあるんだ。医者と薬は使いようだな。
で、妊娠中は、ありとあらゆるマイナートラブルを経験する。わたしの場合まずお腹と鼻血が下るところからスタートし、嘔気と眠気のしつこいまとわりつき、食欲不振と食べづわりコンボ、それが落ち着く頃に便秘と全身の乾燥、そして視野の欠損からの片頭痛、などなどがやってきた。
まるでマイナートラブルのエレクトリカルパレードだ。ワー、すてき(棒読み)次から次にやってくる、色とりどりの不定愁訴。わたしはその行進を、ただ黙って眺めているしかできないのだ。薬が飲めないから。なんということでしょう。なんでもかんでも科学が解明するこの時代に、そんなことってあっていいのか。(※頭痛や便秘など一部対処療法ができるものもあります)
一般的な体調不良は「日に日に良くなる」ことが多い。今日はしんどいが、今日よりは明日のほうがちょっと良くなる。少なくとも、先週よりも今週のほうが良くなっている。そう信じられるから、ひどい頭痛や咽頭痛をなんとか耐え忍ぶことができる。
数年前、全身麻酔で子宮筋腫の手術をしたときでさえ(たぶんこれがわたしの人生のなかでもっとも「具合が悪い日」だった)、初日よりは二日目、二日目よりは三日目のほうが具合がマシだった。だからこそ、体中に張り巡らされたありとあらゆるチューブを引っこ抜いて病院中を暴れまわるような愚行をしなくて済んだのだ。(ちなみに、入院三日目にドレーンをぶら下げたまま「近所のTSUTAYAまで散歩してきていいですか」と看護師さんに申し出たら、にっこり笑って部屋に押し戻された。尿カテ取れたから行けると思ったんだけど…)
ところが。不定愁訴のエレクトリカルパレードの場合、今までの人生で身につけてきたこの法則がまったく当てにならない。今日の具合がちょっと良くても、明日もいいとは限らない。今週なんだかスッキリしたから、来週はもっとスッキリする、とは限らない。
この全容が最初、全然つかめなかった。具合の悪さのピークが8月頭だったのだが、それが2週間くらいで「ちょっと良くなった」。だから、このままの調子でいけば8月の終わり頃には調子がもっと良くなるはずと思った。少なくともこれまでだったらそうだった。知らなかったのだ。エレクトリカルパレードが、手を変え品を変え続いていくことを。
9月の初旬、だいぶ調子がよくなってきたので、夫に付き合ってもらって自分のお店に行った。お店を再オープンさせるためである。ワインの在庫を確認して、ダメになっているものを処分した。次の週から、時短でぼちぼちスタートさせるぞ!という気持ちだった。なんだったら、これだってわたしにしてはだいぶ目標を下げたつもりだ。
そして、翌日から3日寝込んだ。
嘘だろ。調子よくなって来たんじゃねーのかよ。
さすがに泣いた。もう二度と健康なからだに戻れないのではないかと思った。そもそも2ヶ月も微熱が続くなんて、それだけでも異常だ。こっちが健康でなきゃ腹の子だって育たないのに、どういうプログラ厶になってんだ。っていうか、科学的に解明されてもない謎の症状に、毎日毎日ダメージ食らい続けるこっちの身にもなってみろよ。そんなの世界のほうが間違ってる。解決しろよ、天下の科学様だろ!!!!!
なお、この頃エレクトリカルパレードは、『ご飯、食べれない』のパートが豪華絢爛に闊歩している最中だった。
食べられないので、必然的に食べることばかりを考えてしまう。ああ、食べ物のことしか考えられないなんて、人間としてどうかしてる。生活ってなんだっけ。生きるってなんだっけ。わたしはここに、生きていていいのでしょうか、神様……
妊婦はつらいよ。
さらにわたしを苦しめたのは、唐突な好みの変化だった。端的に言うと、ワインが飲みたくなくなった。
ワインが飲みたくない。
これは大げさでなく、「わたし」の基盤を根底から覆すほどの威力を持っていた。
まず今のわたしの生活の大部分が、ワインに関連するものでまわっていた。自分のお店であるワインバーはもちろん、ワイナリーもそう、好きで続けていたメディアでの発信もそうだ。繋がっている友人や関係者の多くがワインの民だった。休日になればワインのイベントに出かけ、旅の目的がワインだった。こどものことばかりが話題にのぼる夫婦の食卓があるように、ワインの話題ばかりの食卓だってある。それが我が家だった。人生いろいろだ。
ワインは仕事であり、遊びだった。趣味であり、食いぶちだった。そして、そんなワインのことが美味しくて楽しくて、心の底から大好きだった。
それが、ある日を境に(と、わたしには感じられた)唐突にワインを飲みたくなくなった。
こうなると、ワインにまつわるものごとすべてがしんどくなった。
ワインが飲みたくないので、ワインのことを考えても楽しくなかった。自分のお店にも立ちたくなくなり、ワインを選ぶ元気もなかった。ワインの話もろくにできず、ワインのことを考えるだけで気が沈んだ。夫の晩酌を見るのさえつらく、卓上のボトルからは目をそらしていた。
こう話すと、想定外の妊娠だったのか、と思われるかもしれない。でも、いつかこどもを授かる未来を思い描いていなかったわけではない。わたしたち夫婦は、積極的にこどものいる未来を目標にしてはいなかったが、一方でこどもを「持たない」選択もしていない。だから、いずれこどもを生み育てるかもしれないこと、そのときにいくつかのことを諦めるかもしれないことは、人生の中にはすでに織り込み済みだった。
それでも、ワインを飲みたくなくなる日が来るなんてことは1ミリも想像していなかった。まさに青天の霹靂だ。そうか、そんなことってあるんだ。それが、他でもないわたしに起こるんだ。ああ、ワインはわたしのすべてだったのに。
「飲みたいのに、飲んじゃいけない」ならば、どんなに幸せだっただろう――
妊婦はつらいよ。
食べられない、飲めない、元気がない。
これが、ホルモンバランスの変化によってわたしにもたらされた主な変化だ。そして、(お気づきだろうか)これらはわたしにとって、ほとんど生きる喜びの「すべて」だった。
妊婦になって得たものは、こどものいる未来だろう。わたしはそれと引き換えに、すべてのものを失ったと感じていた。
いや実際はもちろん、日々の生活は地続きに続いていた。愛する夫もいて、本当は健康で、ワインがなくたって繋がる友人もいた。なによりも、毎日生きようともがく、新しい命がここにあった。
けれどわたしが感じていたのは、紛れもない「喪失」だった。妊娠はわたしに、自己同一性(アイデンティティ)の喪失という、深い絶望をもたらしたのだった。
*
妊娠14週めに入りました。一般的に安定期と呼ばれる16週までもう少し、というところです。
じわじわと体調が安定に向かい始めた(これ言うの何度目だ?)今日この頃。シンプルに誰かに話を聴いてもらいたくなったので、「妊婦、つらい…」と思っていたことを書き残しておくことにしました。
ちなみに今のところ、こどもができた実感もなければ無限の愛情も湧いて来ません。ただひたすら体調が悪いだけ。せめて、可愛い我が子のため、と思えればもっと強くなれるのに…とは思うんだけど、だって仲良くできるかどうかなんて、本人に会ってみないとわからなくないですか……?
たぶん、わたしには妊婦の才能がない。あの、お腹を支えて優しく微笑む妊婦さんたち、あれは妊婦界隈の頂点の人々なのだ。妊婦オブザ妊婦。底辺にいるあたしは、とにかく毎分毎秒が過ぎてゆくのを目を瞑って耐えるしかないのだ。底辺は底辺なりに、それでも生きるしかない。
というわけで、引き続きしつこいエレクトリカルパレードを見送っています。お店の再開はそういうわけでいったん先送りになりましたが、前向きに検討中。これがパレードの最後尾あたりと信じたい。(何度目だ)