ますたやよもやま話│わたしが「バー」を開くワケ。
「ますたやさんって、将来バーを開きたいんですか?」
そんな風に聞かれることがあります。
ここのところ、あらゆる媒体でしつこく「場づくり」の話をしております。その延長線上でバー企画なんてやるものだから、そんな風に感じられても不思議ではない、というか、当然のことかと思います。
でも実は、答えは「ノー」。
というよりも、事業形態はあくまで「手段」であって、最終的な「目的」じゃないんです、というのが本当のところ。
というわけで、今日はわたしがどういう経緯をたどって「ワインで繋がる場づくり」を目指したいと思ったのか、そのあたりのことを書いてみたいと思います。
ますたやよもやま話のはじまり、はじまり~
最前線から退いたことで公言できるようになりましたが、そもそもわたしは10年とすこしの間、臨床心理士として医療現場で働いてきました。
専門分野はこどもと親。特に、神経発達症(かつての”発達障害”)の特性を持つ、1歳から18歳頃までのこどもたちへのアプローチを専門としてきました。
わたしはこの仕事に誇りを持っています。この仕事で会うこどもたちのことが、心から愛しい。
ちなみに、べつにこどものことを、単純に「カワイイ」と思ってるわけじゃありません。むしろ、彼ら彼女らの話は退屈なことのほうが多いし、理解できないことがほとんどだし、なんなら心身ともに、こてんぱんに打ちのめされることもしばしばでした。
何度、この仕事を辞めようと思ったことか。毎朝の通勤が、どれだけ憂鬱だったことか。こどもの前で泣きながら、「わたしが死ぬか、あんたが死ぬか」というすさまじい境地に立ったこともありました。真の意味で自分自身を「全部」使って、やるしかない。そういう、たまらなく魅力のある仕事でした。
この世は、彼ら彼女ら(そしてその親御さんたち)にとって、わりと冷たく、そして厳しいです。「空気が読めない」ことが嘲笑され、疎まれる時代。自分は差別なんてしない、と思っていても、ふと『SNSで見かけるあのひとって、空気読めないよね』と感じている自分に気づいたりします。
そういう窮屈な時代に傷つけられやすい彼らだからこそ、ひとりの人間として大切にされる場所があるといい。それがきっと、彼ら彼女らの人生の角度を、ほんの「1ミリ」変えるはず――
これは、わたしがこの仕事をするときに、胸に掲げていた信念です。そしてそれはいずれわたしが「場づくり」を志すようになっていく、小さな種のようなものになっていきました。
2020年からの2年間は、わたし自身が自由と不自由のはざまで揺れた時期でした。
コロナによる数々の規制は、医療現場を直撃しました。当時わたしが勤めていた病院には、「療養型病棟」がありました。つまり、あの頃もっとも注意すべきとされた、「高齢」かつ「持病」を持つひとが住まう終の棲家。「わたしが感染したら、誰かを殺してしまうかもしれない」という恐ろしいプレッシャーのなか、現場のスタッフたちは必死に働いていました。
一方で、わたしはいち医療者でありながら、自由を愛するいち市民でもありました。旅が好きで、お祭りが好きで、酒のある場所が大好きでした。わたしにたくさんの刺激を与えてくれる、東京の街を愛していました。もう忘れたかもしれませんが、あの頃は「東京に行ってきた」というだけで、いぶかしい顔をされたんですよね。だから、誰にも言いませんでした。
飛び立ちたいのに、飛び立てない。当時のわたしは、まるで羽を折られた鳥のようなものだったのだろうと思います。
コロナ禍が運んできたのは、ウィルスだけではありません。
世界は分断が進むばかりのように思え、足元には不自由と疑心暗鬼が蔓延していました。各国で胸の痛いできごとが起こり、身近な友人とは意見の相違が生まれました。誰の意見が正しいのか、正しくないのか。善なのか、悪なのか――
二分法の息苦しい毎日に、だからこそわたしは、「多様性」を受け入れることを渇望したのだと思います。
さてここでますたやの自分語りは、ワイン業界にやってきたあとに飛びます。
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