体言止め
Twitterを見ると、「体言止め」というワードがトレンドに入っていた。
寄稿した文章に対し「体言止めが美しいから」といった理由で、受け取った報道機関が多くの修正を入れ、執筆者との確執を生んだそうだ。
その寄稿の原文を自分も読んだが、大変読みやすく論理的な文章で、こちらが参考にしたいぐらいだった。一方、新聞のような限られたスペースに文章を入れ込むために、体言止めを使って文を短縮したくなる気持ちも分からなくない。
しかし、問題なのは「体言止めが美しい」との理由。文章に対する美しさなんてものは読み手が判断するものであって、はじめから書き手が「この方が美しい」というのは極めて傲慢な態度としか思えない。せめて体言止めの方が「わかりやすい」というのなら、まだ一考の余地がある。わかりやすい文章を考えるのは書き手の使命だからだ。
今回、寄稿者自身が発信した呟きした見ていないため、内情は深くまで知らない。ただ、本当に「美しさ」というあやふやな価値基準のみで、理路整然とした文章に注文を付けたのならこんな悲しい話はない。
俺は東京生まれHIP HOP育ち
悪そうな奴は大体友達
悪そうな奴と大体同じ
裏の道歩き見てきたこの街
渋谷 六本木 そう思春期も早々に これにぞっこんに
カバンなら置き放っしてきた高校に
マジ親に迷惑かけた本当に
だが時は経ち今じゃ雑誌のカヴァー
そこらじゅうで幅をきかすDON DADA
Dragon Ashの曲「Grateful Days」の歌詞の一部。筆者はこれを聴いた時、「体言止めは美しい」と思ったのである。