2034年の自分へ
こどもたちのことを思い出しながら振り返る2024
こどもたちの育つ環境は果たして年々よりよくなっているのか、ちょうど自分がこどもたちと関わる活動に出会って10年目となるのが2024年でした。
2014年、まだこども食堂といっても知っている人はほとんどなく、日本のこどもの貧困ってイメージできない、相対的貧困と絶対的貧困って?というのが肌感覚として覚えています。こどもにまつわる社会問題が年々ニュースで見かけることが増え、こどもの中に問題があるのではなくて、社会構造として、生きづらさやしんどさがダメージとして生まれていることの認知が一定広まった気がしています。
ちょうど京都はぐくみ憲章がどんな経緯で作られたかを調べた時に見つけた資料で、2009年の提言書を読んでみると、当時のこども理解が今とは少し感覚が違うように感じたのでした。

「切れる」という表現が、こどもの問題として今ではほとんど使わないと思うのですが、全体的にこどものできなさ(昔はできていたのに)に問題が置かれているような気がして、なぜそれが問題なのか、どうしてそのような問題が起こるのか、模索されている時期だと今からの視点だと感じます。
「今どきのこども(若者)ってコミュ力落ちてるよね」という言い回しもどこか昔のような気がしていて、逆に大人はコミュニケーション能力が高いのから問題が起きていないのかという感じで、社会全体で分断が起きているように、コミュニケーションの能力に問題があるのではなく、文化や風土などもっと違うところにある気がしています。
ちょうど先月小学生から、「朝がきてほしくない」という言葉を聞いて心が痛くなりました。現実が来てほしくない、学校に行きたくない、また人と関わるのが大変・こわい、どこに真意があるのかまではわからなかったですが、夜のひとりの時間が安全で安心だということは話を聞かせてもらいました。
たしかに2014年の自分は「2020年はもっと楽しい未来が、もっと素敵な将来が来てほしい!」とぎりぎり前向きな気持ちを持っていましたが、今となっては来年、いや半年後、希望というよりはこれ以上悪くならないでくれと願いたくなる気持ちが大きいです。こどもと関わる現場にいるはずなのに、環境がよりよくなっているかどうか、社会全体を見回したときはやはり感じること難しいというのが正直な気持ちです。
こどもの多面性から見えてくる社会
出生数が70万人を割り込むことが確定している2024年、100万人を切ったの2016年らしく、10年たらずで年間の生まれるこどもの人数が30万人ほど減っているようです。
95年うまれの自分からすると当時は118万人ほどで、小学生のとき40人弱学級で1学年240人、1つの小学校で1000人を超えて、全校生徒が集まると運動場いっぱいだったのが今では幻のように感じます。ちょうど関わる地域の小学校と中学校が、人口減少の影響で統合され、2025年度から小中一貫校がはじまります。統合前が1校100人から200人規模で、運動会が午前中に終わるのも不思議な感覚です。
こどもの人口が減っていくなかで、個人的な懸念としては、すべてのこどもたちにこども時代に過ごすべき「今」をちゃんと過ごすことが保障されているかどうかです。社会が分断と疲弊と格差が大きくなる中、他者を想える力が減っていくのではないかと不安になります。負の感情のエネルギーが他者に振りまかれる不安です。社会でこどもの育ちを支えることは、その地域に住む人の心と経済的な余力に大きく影響しているのではと思っています。
ちょうど今年は京都市のたくさんのこどもたちに声をきく機会がありました。普段の活動で関わっているこどもたちと今回出会ったこどもたちを合わせると少なくとも260人と今年は出会って、今のこどもたちの見える世界、感じる気持ちを聞かせてもらったと思います。「友達ができるどうか不安」と大人になった今の自分からはすごく懐かしい声もあって、不安なく他者とつながっている感であったり、逆にひとりの自分の時間を持てることの価値も確認させてもらったり、改めてこどもの感覚を学び直しさせてもらった時間でした。
「多元世界」という言葉に出会ったのも今年で、いわゆる名探偵コナンの「真実はいつもひとつ」とは真逆の認知で、またどうしても二元論(良いか/悪いか、正しいか/間違っているか、みたいな)で価値判断しがちな認知から離れて、多数の多様なみんなの「これが大切」が共存する認知があるということを知りました。こども理解も、レッテルやバイアスから離れて、属性でこどもに起きていることを理解するのではなく、こどもの多面性に留意したい(こどもに限らずだけれども)と思っています。たとえば、「不登校だから〇〇じゃない?」みたいな発想ではなくて、目の前のこどもは何を感じているのか、どんな世界が見えているのか、何に心が動くのか、だれといたいのかいたくないのか、などちゃんとその人自身と向き合いたい…といった感じです。
「こどもの居場所」という言葉が「なんだか大事じゃね」「つくったほうがいいよね」みたいな空気感はなんとなくあるようで、いわゆるこどもの居場所議論がある程度認知されているところはあって、じゃあこれからどう「居場所」と向き合っていけばいいかと政策や市政レベルでみると難しくて、「大事なのはわかるけど…どう増やせばいいんや」みたいな段階にいる気がしてます。京都市で、市民活動としてこどもの居場所づくりをしている活動団体数が230を超えて、もちろんマクドナルドも居場所じゃね?みたいなのはたしかにそうでそれも大事で、これからどうすればいいのかという視点でみると、言語化ってたしかに難しいと感じます。
それでもたしかに思えることはあって、そのヒントが「パン屋がほしい」という声でした。
京都に来て7年目を迎えているのですが、その子どもが住むエリアをよくよく思い返すとパン屋がなくて、どうしてパン屋がほしいかどうかは結局聞けずじまいですが、なかなか的を得ているとも感じています。ちょうど地域の人から聞いた昔話と比較すると、近所でこどもがアクセスできる場所が確実に減っていて、自分と異なる他者と出会う機会の減少でもありました。地域のお祭りがいろんな大人やこどもと出会えたように、パン屋も地域の偶発的な出会いとコミュニケーションの場のように感じてしまいます。朝、登校の時間に風に乗ってくるパンの香り、寄り道や一緒に買い物にいくことで自然と生まれる会話、近所の人と顔みしる機会…。パン屋があるだけでも、少し贅沢な地域に思えます。
大学生のときから使っている言葉で「日常に彩りを」という言葉があります。日々の暮らしを無意識のうちに彩りを増やしていた経験や体験が、実はなんなのか、なんだったのかを精査すると、これからのこどもの育つ環境で必要なイメージが湧いてくる気がしています。それは決して指導的なものではなくて、自然と日常が楽しく前向きになれるような経験や体験で、ちゃんと自分が社会で大切にされる感覚とも表現できるような気がします。
裏切らない他者、裏切らない自分
自分を大切に思ってくれる他者はどれだけいるのでしょうか。
家族?学校の先生?友達?好きな人?推し?
こどもと出会って、「自分だけは裏切らない人になりたい」と思っている自分がどこかにいます。それができているかどうか、いや、確実にだめだ、できてないと反省する日がなくなることがないのが現実ですが、そうでありたいと、振り返るといろんな後悔があります。
「朝がきてほしくない」
昼夜逆転という現象に対して、個人的に思うのは現実からの生存戦略です。誰にも邪魔されない自分が自分らしく過ごせる大切な時間が「深夜」であって、現実は勉強という言葉と同様にしんどい感覚を覚えるこどもが多いように感じます。人口的なこどもの居場所づくり活動が温室と例えられるように、社会・現実の冷たさ、排他性によって、自分で居る場所が大人と比べて限定的な選択肢で残されているのが「深夜」な気がしています。そう考えると、やはり太陽が出ている時間、どう「安心」で「楽しくなる」時間を保証できるか、悩みたいし、社会実装できるようになりたいです。
2034年はどんな未来ですか?
2034年に自分の生活も含めてどうなっているのか、不安しかないけれども、でも!、やっぱり今まで出会ってきたこどもたちのことを思えば、諦められないし希望を感じれるように頑張りたいところ…ではあるけれども、そこまで自分自身がもつのかも不安…となんとも歯切れの悪い2024年年末。
かつて2014年の自分から2024年の自分に感じたように、社会は大きくは変わらないのかもしれないけれども、こどもと同じく、今は二度とこなくて、2024年は2024年でしか体験できなくて、だからこそ「今」いる場所と人を大切に、そしてせめて今自分がいる場所だけでも、明日や未来を諦めなくていいようにいれるようになるといいな…。
いいなと思ったら応援しよう!
