大量殺人事件から思ったこと
先日2008年に起こった秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚の刑が執行されたとのニュースが入りました。相模原障害者施設殺傷事件が起こった日に執行とは偶然でしょうか。
2018年の7月26日にも執行されているようです。
今日はそのあたりの話ではないので、また別の機会に。
加藤智大の死刑執行、これで何か区切りがついたような感じになってしまい、事件について取り上げられる機会が減っていきそうで心配です。
犯人を「無敵の人」という言葉で安易にくくらずに、どうしてそのような考えを持ち犯行に至ったかを丁寧に検証しないと、また同じような事件が繰り返されてしまいそうな気がします。
2016年の7月26日、相模原で発生した大量殺人事件。その犯人である植松聖が障害者を「心失者」と呼んだ事について、あまりに恐ろしい言葉でいまだに心に残っています。
植松が作った言葉、心失者。これは人の心を失った者という意味で、主に「意思疎通の取れない重度障害者」を指します。
新しい言葉を作って自分の主張を正当化した植松が恐ろしいのは勿論ですが、ネットなどを見ていると植松のように「この世の中に障害者はいらない」という考えの人が想像以上に存在する事が見えてきます。
秋葉原の事件では犯人が掲示板に書き込みをしていたという事が話題になりましたが、スマートフォンやSNSなどの普及などによってさらに自分の考えを手軽に発信できるようになりました。
でも発信する事が多くなりすぎてしまい、見聞きした情報について時間をかけて考える事が疎かになってきているのではないか、そう感じるようになっています。
また流れてくる情報量も格段に増え、そこから必要なものを探す事にあまり時間をかけられない(または時間をかけたくない)ため、すぐに内容がわかるもの、インパクトがあるものが好まれるような風潮になっています。
耳を澄ましてか細い声を聴いたり、目を凝らして小さく挙げられた手を見つける、そんな受信力がものすごく低下している気がします。
意思疎通ができない存在を「心失者」と呼んだ植松。目の前の人は意思疎通ができないわけ(心を失っている状態)ではなく、植松自身が受信しようとする事を拒んだ、または受信する気持ちが最初からなかった(受信をしても無駄な相手と思っていた)のではないでしょうか。
あるいは自分が描いている発信のイメージとは違うものは、意思疎通みなさないのかもしれません。
相手から出るものがとてもゆっくりだったり静かだったりすると、まるで止まっているように見えて、それを勝手に反応がない、心がない状態だと決めつけてしまいます。
時間をかけて関わっていけばわかる事があるのに、すぐに結果が判断できるものでないと時間がもったいない、コスパが悪いという考えもそこにはあるのでしょうか。
自分が得にならない事に費やす時間を「無駄」と考える流れは、自分以外の誰かの存在についても「役に立たない」「税金の無駄」という所にたどり着き、障害者差別や生活保護バッシングなどにも繋がると思います。
人の命や生活を守るためにお金をかけるのではなく、本当に税金の無駄という場合もありますが(例えばコロナ地方創生臨時交付金の使い道など)
税金の使い道や権力の暴走(恣意的な死刑執行ではと思える事について)をはじめ、様々な事をしっかり検証できないうちに次々と事件や問題が起こり埋もれてしまいます。
そうして同じ事が繰り返され、みんなの心が疲弊し余裕がなくなり、弱い立場にしわ寄せがいく、そんな負の連鎖が起こっているように思えますし、憎悪が爆発する事件をまた生み出してしまう事に繋がりそうな予感がします。
少しスピードを落としても構わない世の中になって欲しいと思う限りですが、いったい何に急き立てられているのでしょうか、私たちは。