電車で座ってから立った後のモヤモヤ
いつも混んでる通勤電車も、日曜となれば乗客全員が座れるくらい空いている。
今日は天気に恵まれ、行楽日和。そんな日にいつもと同じ時間に通勤。あっ、やっぱり今日は日曜だから座れる、と8人掛けの端に座ってる女子とふたり分程離れて座ってるオジサンのだいたい真ん中に座った。
二駅ほど過ぎた頃、事件は起こった。
いかにも足の悪そうな、しかし口は達者なおばあ様が私の前に立ち、少しつめて席を空けてもらえますか?と声をかけてきた。
私はスマホにイヤホンをぶっ差し音楽を聴いていたが、その声はしっかりと聞こえた。
もちろん、周りの人々にもよく聞こえたようで、その声の聞こえた方へ目をやる人が数名見えた。
もう、その時点で私は左右のどちらかに寄って、おばあ様のために空席を作らねばならなくなって、端に座ってる女子の隣の人になり、おばあ様は私とオジサンの間の人になった。
が、めでたしめでたし、とはならなかった。
そのおばあ様のお友達らしきおじい様がまだ立っている。
ヤバイヨヤバイヨ。老人虐待じゃないけど、若い私が座ってちゃあ、ダメなんじゃないの。
イヤホンで音楽を聴きつつ、その場の空気を読みすぎた私はオジサンの前に立つ人になった。
そして、目的の駅まで吊り革を握り、あまり座れない日曜の朝になった。
ここでひとつ、疑問のようなモヤモヤが残る。
私の行為は何だったのか。
良い行いだったのか、偽善だったのか。
周りの人々は何を感じていただろうか。
先の話の登場人物の中で声を発していたのは、おばあ様とおじい様だけである。
他の人も声を発していたかもしれないが、その間ずっとイヤホンで音楽を聴いていた私にはわからなかった。
おばあ様が、私が立ったあと、おじい様にせっかくだから座らせてもらいましょうとか何とか言って、おじい様がそれに答えて、じゃあ座ろうかとかいうやり取りをしていた会話のみ、車両内に響いていたと思われる。
私は、始終無言を貫いた。
声が出なかった。
出せなかった。
おばあ様の勢いに負かされ、声を出すタイミングを見つけられなかった。
一夜明け、モヤモヤの原因、正体が少しづつ見えてきた。
私は席を譲ったのか、はたまた席を奪われたのか?
私はきちんと会話すべきだったのか否か。
周りの人たちはただの傍観者だったのか。
そんな疑問の数々が残されて、モヤモヤし、この記事に至った。
個人で電車に乗る多くの人々は、声を発することなく、目的地まで電車に揺られる。
しかし、先の話のおばあ様のように誰かと連れだって電車に乗る人々は、だいたい何らかの会話をする。
そして、その会話をしない人々と会話をする人々は、あまり交わらない。
そう、あの時の私は会話しない人であり、音楽を聴くイヤホンによって、薄いバリアをまとっていた。
そんなバリア、おばあ様には無いに等しいのだ。
などと考える私の傍若無人ぶりったら。
混雑した車内で左右に空間を作り、堂々と座ることは、やはり許さない側の人間のハズなのに、自分がいざその堂々と座る側になったとたんに、立つことになって座ることに未練を残すのか。
この記事において、おばあ様やらおじい様やら書いておきながら、心の中では、あのババアとあのジジイと思っていたし、今も思っている。
一般的に、老人に席を譲ることは素晴らしいことらしい。
だけど、納得いかなかった。
私の行為、おばあ様の行為、まわりの人々の行為。
仮に私が幅の狭い優先席に座っていたなら、誰もが納得だったかもしれない。
声をかけるのが、おばあ様でなく私の方が先であれば、私が納得のいく結果になったかもしれない。
私がイヤホンなどしていなければ、混雑してきた車内の状況をもっと早く気づけたかもしれない。
私が横にスライドした後に、オジサンが立ってくれたなら、私は目的の駅まで座れていたかもしれない。
こういう狭い心の私が生きていく道は、今のところ、用意されていないと思われる。
昨今は、ネットの世界でさえ、言論の自由がないらしいし。
クワバラクワバラ。