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1.17その日とそれから、私が見た風景
「むこうのご両親が、もうだいぶ高齢でな。体調も、あんまりようないみたいなんやわ。そやからこんな時期やけど、ホテル側のご好意もあって、親戚だけで結婚式と会食しよう思ってんねん」
亡くなった母の弟、小さい頃から可愛がってもらったおじちゃんから連絡があったのは、その年の1月終わりだった。おじちゃんの娘、私より1歳下の従姉妹とは、小さい頃からよく遊んだ。
その従姉妹から結婚式と披露宴の案内が届いたのは、前年の秋だった。亡くなった母の代理で、私は父と出席することにしていた。
おじちゃんが言った「こんな時期」。それは1995年1月17日に発生した「阪神淡路大震災」から、数週間経った頃のことだった。
*
あの日の早朝。大きな揺れが起こる直前、「地鳴り」というのを初めて聞いた。
地面の奥深く、大きな龍が唸りながら走っていく
揺れが始まる前のその音と、なんとも言えない数秒の感覚を、私はそんなふうにひとに話すことがある。
とっさに布団をかぶり、揺れが収まるまで布団の中で丸くなった。
「おーい、大丈夫か?」
揺れが収まると、階下から父が呼んだ。半年前に母が亡くなり、私は父と実家で二人暮らしだった。
ガスの元栓を止めた父が、ラジオを居間のコタツに置いた。神戸方面を震源とした大きな地震があったとわかった。その時はまだ、父も私も仕事に行くつもりでいたが、電気がついて、テレビから流れるニュースを見てしばらく声が出なかった。
阪急電車もJRも不通。復旧のめどはたたない。ニュースで知った父と私は、職場へ電話で連絡しようとした。携帯電話がない時代、電話は自宅の固定電話だけだ。何度もかけるが、全くつながらない。「おじちゃん、おばちゃんたち、大丈夫やろか」母の兄弟家族、おじちゃん夫婦は、私たちと同じく、大阪北摂に住んでいた。こちらにも電話をかけるが、「ツーツー」という音が聞こえるだけだ。
「電車も動いてへんし。今日はもうあかんで」
父と私はあきらめた。お昼になるころ、実家の上空から「バリバリバリ」という大きな音が、ひっきりなしに聞こえた。マスコミや自衛隊のヘリコプターの音だったことは、後から知った。
日が暮れるころ、職場の上司から電話があった。
「大阪もえらいことなってるって聞いて、朝からずっと電話してたんや。無事でよかった。」
当時、京都で働いていた私。職場の人は、私以外全員京都住まいだった。唯一連絡の取れなかったのが、大阪北摂に住む私だったそうだ。
翌日だったか、その数日後だったろうか。職場へ向かった時おどろいた。「ほんまに地震あったんやろか?」と疑うくらい、京都の街はそれまでと変わらなかった。車とバスが行き交い、電車はダイヤに乱れはありながらも運行していた。店は変わりなく営業し、京都の人の暮らしはなにも変わっていないようだった。実家近くのスーパーは商品棚にモノが並ばない日が続いていたので、仕事帰りに京都で買い物してから帰る日がしばらく続いた。
それから1ヵ月ほど経ったころの土曜日。
父と私は、従妹の結婚式と食事会のため、宝塚ホテルへ向かった。
実家の最寄り駅、阪急高槻駅から梅田行電車に乗る。十三で乗り換え、西宮北口までは走っていた神戸線に乗った。神崎川、猪名川と川を越え兵庫県に入るにつれて、窓からの風景が変わっていった。武庫川を越えた時、窓からの風景が大きく変わり、胸がぎゅっとなった。
壊れた家やビル。焼け跡となった更地。それが延々と広がる。
電車の走らない線路には、大阪方面へ向かって歩くひとの列があった。
だれもいない線路を黙々と歩く、お母さんらしき女性と小学生くらいの男の子。25年経った今も、この光景を忘れられない。
ここ、日本やんな?今、平成の時代やんな?
窓の外を見ながら、頭の中で確かめた。
内戦が続く遠い国のような、母が何度も何度も語った、神戸の空襲直後のような風景が、窓の外に広がっていた。
街って壊れへんもんなんちゃうの?
26年生きてきて、壊れるなんて考えもしなかった「街」が壊れていた。
車内を見ると、防寒着にリュックを背負い、押し黙る人たちでいっぱいだった。キャメル色のコート、その下には赤いワンピースを着た自分。申し訳ない気持ちになり、赤いワンピースを隠すようにコートの襟をぎゅっとつかんだ。あの時俯いて襟をつかんだ手の感覚を、私はまだ覚えている。
おしゃれしてきたのが恥ずかしい。
三宮へ行くために、阪急神戸線に乗る。そういう日は、いつもよりちょっとオシャレするのが、子どものころからの習慣だった。神戸生まれの母は「三宮行くんやったら」と、京都へ行く時とはちょっと違う、華やかな服を選んでいた。
神戸行の電車に乗ってそんなことを思ったのは、初めてでこの1度だけだった。
父と乗った電車が西宮北口へ着き、今津線に乗り換えた。だがその後のことは覚えていない。
レトロで華やかなことで有名な宝塚ホテル。このホテルも建物の一部が壊れていた。ホテルに入ると特有の華やかさはなかった。重たく暗いと感じたのは、照明が暗いだけが理由ではなかったのだろう。親族の控室は用意できないと聞いていたので、父と私は直接チャペルへ行った。
従妹とその旦那さん、彼のご両親。そして、従妹の両親であるおじちゃんおばちゃん、私たち親戚だけの小さな式だった。式の後、私たちは小さな部屋で会食をした。
「温かいものがご用意できない状況です。すいません」とホテルの方が用意してくださった懐石弁当をいただいた。
「あんたんとこ、家具やらなんやら大丈夫やったか?うち、台所に食器棚あったやろ。なかの食器が全部飛び出てな。えらいことやったわ。
しかも、腹立つことにな、高い食器だけ割れて、安もんだけ割れへんかってん。結婚するときは高い食器持っていったらあかんで」
新婦の母であるおばちゃんは、父と私のとなりにきてそんな話を明るくしていた。
華やかな結婚パーティとなるはずだったが、新郎新婦の友人にも被害にあった方がいたそうで、ふたりは満面の笑顔とはならなかった。
「姉貴は、あの神戸の街見たら、なんて言うてたやろうなあ」
「あの空襲の日思いだしてたかもしれんな」
「『いつかもういっぺん神戸に住みたい』ってよう言うてましたなあ」
「僕ら家族(母の家族)が、いちばん裕福でええ時代でしたからなあ」
母の兄弟、3人のおじちゃんたちと父は、半年前に亡くなった母のことを思い出しながら、そんな話をしていた。新郎新婦の馴れ初めより、震災のことばかり話題に上がっていた思い出がある。
「住吉のおばさんが、水道もガスも通ってない言うてな。地震から1週間ほど後に、線路歩いて、水と果物、缶詰を持って行ってたんや」
いちばん上のおじちゃん(母の兄)が話してくれた。
「ひどかった。家やらなんやら、焼けてしもててな。戦争のころ思い出したわ」
母と同じく、神戸にもう一度住みたいと話していたおじちゃんだったが、あの日から、「もう一度神戸に」とは言わなくなってしまった。
あのおしゃれな場所、どこーー?
数日前、テレビの画面を見て息子がきいた。
「神戸やん。神戸の異人館にある風見鶏の家やん。あんた小さいころなんべんかいったやろ?」
「知らん。おれ覚えてへんで。めっちゃおしゃれな場所やん」
震災といえば阪神淡路でなく、311の東日本が浮かぶ息子。1.17の6年後に生まれ12歳まで大阪で育った彼は、小学校では1.17の話を授業で聞いたりしてきたが、移り住んだ横浜の中学では3.11の話だけだったらしい。
そんな息子にとっては、神戸はおしゃれな街というイメージしかないのだろう。
京都で学び、大阪で稼ぎ、神戸に住む。
母や祖父母が、昔から何度も言っていた。
関西人のライフスタイルの理想らしい。
「あんたのおばあちゃんらは、そんなん言うててんで」
「へ~。昔から神戸はおしゃれな街やってんな」
あの日を知らない息子は、神戸はずっとおしゃれな街なのだ。瓦礫だらけになり、私が電車の窓から見たあの風景を息子は知らない。神戸の街が好きだっが祖父母と母が、あの日を知らずに亡くなったように。
そうだ。春休みには、おじいちゃんおばあちゃんの墓参りに行こうと息子に行っているが、久しぶりにふたりで神戸にも行ってみよう。
「それもう、何べんも聞いたってーー」と言われても、
祖父母と母、私の神戸の思い出を話そう。
25年前の1月17日のことを、神戸の街で話そう。
2021年1月17日改
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