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実家終いと最後の見送り

●突然始まった実家の片付け

母が亡くなってから、いつかはやらなあかんなぁ、、と思いながら、父も兄も私も、20年以上始めなかったこと。

実家を片付ける。

去年の夏。ついに私と兄夫婦で始めることになった。というか。デッドラインが決められて、始めざるを得なくなったのだ。

去年2月に入院した父が3か月後に急逝した。葬儀を終えた後、兄と相談して、実家を処分すること、家屋は取り壊し、更地にして売却することにきめた。

それならば、長期間実家を無人にしておくのは、避けたほうがいい。不用心やし、子供の頃からお世話になったご近所さんにも迷惑かけるしな、と兄夫婦と話して、早急に実家のものを全て処分し、秋には取り壊しすることにした。

兄夫婦は大阪府内の実家から車で20分のところに住んでいるが、会社員で週末しか実家には来れない。そこで、実家からは遠いがいちばん時間がある私が、途中横浜の自宅に戻りながら、1ヶ月ほど実家で暮らすことになった。

こうして、最初で最後の実家での一人暮らしが始まった。

記録的猛暑となった暑い大阪にある実家での夏。

それは、久しぶりにゆっくりと、家族の思い出と過ごす時間だった。

●モノと思い出に埋もれた実家から、最後に出てきた母のノート

週末には近くに住む兄夫婦が来てくれたが、それ以外は私ひとり黙々と作業する。(息子が4日ほど、夫も2日ほど手伝いに来てくれた)。

「これ、ほんまに終わるん?」

と、何度も思うほど、まぁ出てくる出てくる、いろんなもんが。

気が遠くなるとはまさにこういう状態。
と思うが、思うだけではなにも作業は進まないので、
「ええから、さっさとちゃっちゃとやろう」と自分に言う。

母の服、天袋に箱のまんま重ねられた
タオル類やシーツ。

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↑おしゃれな衣装箱。70年代の阪急百貨店のもの。

天袋や押し入れから出す。
服やタオルなどはゴミ袋に入れて、
箱は畳んでビニール紐でくくって、
ゴミの日に出したり
兄夫婦が車に詰めて、リサイクルごみ集積場に運んだ。

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それ以外、大量の箱入り文芸書や食器などの不燃ごみは、業者さんや市の特別回収で引き取ってもらう。

単純作業のように、ただ「やったら終わる」流れのなかに、ぽつぽつと、流れを止めるものを見つける時があった。

・両親の新婚旅行の写真とその時母が被っていた帽子
・兄と私に1冊ずつまとめられた子どもの頃のアルバム
・兄夫婦の結納品と写真

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↑兄と私に1冊ずつ。ふたりとも50年以上生きてきて、初めて見たアルバム。

手を止め、眺め、そのときの時間に戻る。

「なんや、新婚旅行の時から、旅行に行ったら
『はよ帰りたい』言うてたんやなあ、おかんは、、、」

「うちらの小さい頃の写真、おじいちゃん(母方の祖父)もぎょうさん撮ってくれてたんやなあ」

「お兄ちゃんらの結納品と新婚当時の写真でてきてんけど、、」
「あ、いらんから捨てて(あっさり言う義理姉)」
「ええ!!なんで見る前から即答するねん!
(妻の即答に若干ショックな兄)」

兄夫婦とも久しぶりにゆっくり話す時間だった。そうしてほとんどの物が片付いていったお盆の終わり。

「押し入れの奥からな、こんなん出てきてん」

と、義理姉が見つけたのが、20冊ほどのノート。それは母の家計簿兼日記だった。

●母のノートが見せてくれた、初めて知る母の顔

そういえば。毎晩母はそろばん弾いて使ったお金計算して、ノートにつけていた。小さな読みにくい字で、日記のようなものも書いていた。

一番古いものは私が産まれた年のもの。それ以前のものは、実家を建てた時処分したのかもしれない。ノートは、亡くなる半年ほど前までほぼ毎日綴られていた。

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母が亡くなった後、このノートをどうするか父に聞いたことがあった。

「家族でも他人の日記は読むもんやない」

と言っていたので、父が処分したと思っていた。

母が亡くなってから25年。読むことも、捨てることも出来ず。押入れの奥にしまってたんやろうなぁ、お父さん。

父に「読むもんやない」と言われていたものの、さーっと全てのノートをページだけめくり、何か挟んでいないか確認した。へそくりとかないかな、と期待したがそれはなかった。

ページをめくるだけだったが、ふと指が止まるページが何度かあった。ちょっと後ろめたさを感じながらも、気になって母の読みにくい字を読む。そこにはこんなことが書かれていた。

●私が産まれて、産休後に復職。仕事が大変だったこと。

●時間があれば、こんなことも子どもと一緒に出来るのになあと、
子育てと仕事に悩んでいたこと。

●兄が学校の先生に反抗的で、呼び出されたこと。

●「あなたは自分の人生をもっと楽しんでもいいんじゃない?」と長い付き合いの友人に言われたこと。「それが出来ていないのは、夫さんの責任でもあるのよ」と父が彼女に言われたこと。

●夫(私の父)とのすれ違いの時期、義理妹(私のおばちゃん)に相談していたこと。

●母の母(私の祖母)が老いて、好きな書道も料理もやらなくなり、心配したり怒ったりしながら一緒に過ごしていたこと。

そんな「家族」のことのほか、

母がひとりの人間として、生きていく上で大事にしたいこと。

悩んだり、傷ついたり、前を向こうとしたことが書いてあった。

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↑ ↑ 母が書き写した住井すえさんのことば。土曜日の午後、京都にある陶芸教室に通ってたことを思い出した。

なんや。いっしょやったんや。お母さんも私も。
 悩んだり傷ついたり。よし!やろうと前を向いて歩いたり。
 仕事と子育て、パートナーシップに悩み、
親の老いと死に向き合う時が来て。 

今の私、大人になってからの私と同じように、家族や自分のことで悩み。

悲しかったり、嬉しかったり、怒ったり。いろんな感情たくさん味わい、転んで起きて、かっこ悪かったりしながら生きてたんや。

そんで、「妻」「娘」「母」「妹で姉」以外に
「名前のあるひとりのひと」としての顔も人生もあったんや。

という、当たり前のことをようやく知った。

子どもの頃、私は母が嫌いだった。私が大学生になるまでソリが合わず、仲のいい親子では全くなかった。

日記を書いていた母と同じような年代を経てきた私は、母のノートを読んだ後、頑張って生きてきた「肩を組み讃えあう仲間」のように感じた。

亡くなって26年。声も忘れかけてしまったが、なんだか母と近くなれた気がした。
(生きてたらきっとまだ、しょっちゅう喧嘩していただろう(笑)。まあ、そんなもんだ。)

母は紙の「ノート」に、私はこの「note」にそんな自分のことを綴り、
自分と向き合う時間を持っているというのも、
「なんやかんや言うて、親子やなあ。似たようなことやってるわ」とちょっと笑ってしもた。

父には怒られるかもしれないが、母の日記を読んでよかったと思った。勝手な言いぐさやけど、「ちょっと聴いてえな」と母も思っていたのかもしれないと、今は思う。

●最後の最後の、お見送り

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初めて見る空っぽの実家で最後過ごして、父ができなかった母のお見送り、育った家族とのお別れができた気がした。

「そりゃあ、夫婦どっちかのものは、残された方は処分できへんわあ」

横浜へ戻る前日、近所のおばちゃんたちに大量のごみ出しを手伝ってもらったお礼と、今後のことを報告した際、そういわれた。

母のノートは、父の写真や古いアルバムと一緒にダンボール箱に詰めて、溶解処分してくれる会社に送った。蓋を閉める前、なんとなくそうしたいと思い、お塩をかけて手を合わせて、宅配便のお兄さんに渡した。

いろんな思いのこもった重たい箱が、最後に実家から出るのを見送った。

実家終い。

これは兄と私がやらなあかんことやったんやなぁ、、実家終いはうちら子どものお務めやったんやなと、空っぽになった実家で思った。


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そして、この後年末までの4ヶ月。実家が取り壊され更地となり。
兄から「買い手さんが決まりそうや」と連絡がきたのは、秋だった。

それから12月まで、契約手続きのため書類を持って2度ほど大阪へ行き、実家のあった土地は買い手さんへと引き継がれ、私たちが育った実家はなくなった。

ややこしい書類作成や申請など、手続き全てを引き受けてくれていた兄も、ほっとしていた。

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今年のお盆。五山の送り火。

今年の夏はお墓参りも行かずにいようと思っていたが、お盆前にふと「やっぱり行こう」と思い立った。夫も誘って、京都へ。父と母のお墓を(ほとんど夫が)掃除して、ふたりで手を合わせた。

その夜は五山の送り火。鴨川にかかる橋の上から、ふたりで大文字の灯りが揺れるのを眺めていた。隣にいたご近所の方らしい年配の女性が、送り火に手を合わせていた。「また来年ね」と心の中で父、母、祖父母たちに声をかけて、私も手を合わせた。

行ってよかった。去年はなんだかバタバタとお盆が過ぎてしまったが、久しぶりにゆっくり見送れたと思った。

亡くなる数年前から、実家で父と過ごす時間が多くなり、毎年夏休みは実家に泊まり込んでいた兄も、今年の夏休みゆっくりできたかなあ、と思いながら、送り火ときれいな月を眺めていた。




美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。