母が遺した30年前のレシピファイルから生まれた、お肉たっぷりミートソース
【レシピ】お肉たっぷりミートソース
小さい頃から、ミートソーススパゲティが大好きな息子23歳。彼が一口食べて叫んだ。
「俺の人生でいちばん美味いミートソース!!」
ミートソースは、レトルトや缶詰など市販品を使うことが多かった。手軽で、ちょっと甘いあの味が息子は好きだったので(特に小学生の頃)、よく買い置きしていた。
市販品は便利だが、私好みの味付けで食べてみたいと思い、手作りしたこともある。甘味を減らして、野菜もひき肉もたっぷり入れて作ったのだが、「肉と野菜入りトマトソース」になっていた。
ところが、このミートソース。今まで食べた、作ったミートソースとは全く別物だった。
肉肉しい。
今まで食べたミートソースのなかでいちばん
「あー!肉を食べている!ミートのソースだ!」
と、感じられる味だった。
肉肉しさは感じるが、不思議なことに、
重すぎず、お腹にもたれない。
薄味ではなく、深みのある味がしっかりついていて、パスタと食べたらちょうどいい。肉や野菜たっぷりで満足感もある。
パスタはあまり好まない夫も、粉チーズをたっぷりとかけて、「これはええなあ」と美味しそうに食べていた。
そんなミートソースのレシピをご紹介しよう。
「約6皿分牛ミンチ1キロ」と肉多めのレシピにしているが、我が家(大人3人)では夕食、翌日の昼食でこの量がなくなる。よって、それぞれご家庭に合わせて、量は調節していただきたい。
作り方
①フライパンを熱してうすくオリーブオイルをしいて(分量外)、牛ミンチ1キロを入れて広げる。
しばらくじっと触らずに強めの中火で置いておく。底のミンチの色が変わってきたら塩小さじ1.5を入れて大きく混ぜ、また触らずに置く。炒める、でなく、焼く。
②火が通ったら胡椒をかける。余分な油を切り、ミンチを大きめの鍋に入れる。
③すべての野菜を1cm角に切り、①で使ったフライパンをさっときれいにしたら、薄くオリーブオイルをしき(分量外)、野菜を入れて弱めの中火で炒める。
④火が通ったら軽く塩(分量外)をして、ミンチを入れた鍋に入れる。
⑤トマト缶の中身を手で軽く握りつぶしながらすべて鍋に入れる。
オールスパイス、ローリエ、赤ワイン、牛スネ肉のソース煮の煮汁、ソース煮にしたすね肉とセロリも切って鍋に入れ、水分を飛ばしながら弱火で1時間ほど煮つめる。
⑥好みの固さになったら最後に味見。薄ければ塩を加えて完成。
夫と私は、粉チーズもたっぷりとかけた。
ここで、もう一度レシピを見返していただきたい。
ってなんやねん?!
そんなつっこみが聞こえてくる。
「市販のデミグラスソースでもいいんじゃない?」
そう思われた方もいるはず。それならスーパーでも買える。
だが、『牛スネ肉のソース煮』がなければ、「俺の人生でいちばん美味い」と息子が叫んだ、このミートソースにはならないのだ。
このレシピにおいて欠かせない、他に置き換えられない材料『牛スネ肉のソース煮』。これは、母が残したレシピだった。私も兄も、この料理を食べた記憶が全くないのだけれど。
レシピが生まれたきっかけは実家じまい
6年前の夏、兄夫婦と私と3人で、大阪T市にある実家を片付けていた。
その年の5月に父が亡くなり、兄と私は実家じまいを決めた。悲しい、寂しいという感情に初七日まで浸った後、実家のすべての収納場所にびっちりと詰め込まれたモノを前にしたら、ため息が出た。
8月末に片付けを終え、9月に家屋を取り壊す。
「あんまり長いこと空き家にしとくのも、ご近所に迷惑やしな」
かなり厳しい日程だが、兄にそう言われたらリスケは絶対できない。父と母の衣類に食器、古い写真に文学全集、マッサージ椅子、使いかけの日用品、その他すべてを処分する日々が始まった。
8月になると私は実家に泊まり込み、作業を進めた。
「命の危険がある暑さです」と天気予報で毎日言われるような、大阪の夏だった。
クーラーが壊れた2階は、午前中に片づけると決めていた。朝食を終えると私は階段を上がり、2階の和室で大量のタオルとシーツをゴミ袋に入れた。
25年前に母が亡くなってから、この和室は父の寝室だった。寝る前に本を読むのが習慣だった父。本棚には父好みの単行本がびっちりと並んでいた。歴史小説、ノンフィクション、仏教の単行本。
その端に、黒いファイルを見つけた。
「あー! これ、まだあったんや!」
覚えている。
このファイル、私が母にプレゼントしたのだ。とにかく物をあげても喜ばない母が、嬉しそうに受け取ってくれたプレゼントだった。
母が亡くなった後、父が捨てずにいたのか、気づかずにいたのか。理由はなんでもいい。25年ぶりの再会が嬉しかった。
新聞から切り抜いたレシピ、ちらしの裏やメモに書かれた母の手書きレシピが、バサッと無造作に入っいる。
あの頃のままだ。
汗を拭きながら、懐かしいクセの強い母の字と古い新聞の切り抜きを眺めた。
眺めていたら、片づけの手が止まっていた。あかんあかん、こんなんしてたらあかん。片付け終わらんやん。
「家でゆっくり見て、作ってみよう」
私は自宅に送る段ボール箱に、そのファイルを入れた。
「おやじの七回忌を5月11日にやるから、よかったら来てください」
今年の4月末、兄から短いメールが来た。予定表を見たら、その日だけ空白。
「もっと早う言うてくれたらええのに。でも、この日やったら行けるやん。お父さんがちゃんと調整してくれたんかな」
そんなことを思いながら、私だけ日帰りでいくと連絡した。
「そうや。お兄ちゃん夫婦にもお母さんのレシピ見せて、思い出の料理あったら作ってみよかな」
久しぶりに、黒いファイルを手に取り、レシピを眺めた。
「久しぶりに、お母さんの料理について話すのも楽しいかもしれん」私は母の手書きレシピを数枚選んだ。父の七回忌の日、いつもより2時間早く起きて京都へ向かった。
京都駅に着き、JR線に乗り換えて15分。待ち合わせの駅に着いたら、兄夫婦が車で迎えに来てくれていた。法要の前に、兄夫婦と久しぶりにランチを食べに行く約束をしていたのだ。
店に入り席につくと、私は母のレシピをテーブルに並べた。実家じまいの時、母のレシピファイルを見つけて持ち帰ったことを話し、「お母さんの料理でさ、なんか覚えてるのない?」とふたりに聞いた。
「おかんの料理で覚えているのは、冬瓜料理。おれ、今でもスーパーで冬瓜見たら、おかんの料理思い出すねん」
テーブルのレシピを見る前に、兄が即答した。兄から「冬瓜」って言葉が出てきたのに驚いた。
「冬瓜炊いてな、ひき肉みたいな餡がかかっててん。あれ美味かったなあ」
私の記憶に全くない。母が作っていた記憶も、食べた記憶も全くない。でも、兄は30年以上ずっと、その冬瓜料理を覚えていたのだった。
逆に、私の記憶にある『ピザトースト』を兄は全く覚えていなかった。夏休みのお昼ごはんによく作ってくれていたのだが、「俺、それ知らんわ」と言われた。
義理姉が母の手書きメモを見ながら「私はヨーグルトサラダ覚えてる」と言った。
ごめん、持ってきたレシピにも、私の記憶にも、それはない。
三人ともばらばらな母の思い出の料理。本人以外はその料理を覚えていないことが面白くて、最後はみんなで笑っていた。
「これ、美味しそうちゃう?」
義理姉が母の手書きメモを手に取り、テーブルのまんなかに置いた。
牛スネ肉のソース煮
「なんか、じゃがいもとか玉ねぎ入れたくなるレシピやな」
「うちら食べてたら、絶対それお母さんに言うてたな」
思い出の料理ではなく、「作ってみたい!」というワクっとした気分にもならなかった。「まあ、一回作ってみよか。材料も手に入りやすいし、煮込むだけやし」私はレシピを眺めながら思った。
牛スネ肉のソース煮
京都から戻った翌日、母の手書きレシピを取り出し、材料と作り方を確認する。スーパーに材料を買いに行き、料理にとりかかった。
2丁目?
いや、レシピで2丁目なんて出てこんやろ。
じっと見る。
こげ目
だとわかった。
東京ネギは白ネギのことやな。これは子どもの頃聞いてたからわかる。
スネ肉は塊でなく、大きめにカットされたものしか買えなかった。いつものように、軽く塩をする。
ネギやセロリの切り方は書いていなかったので、大きめに切った。
茹でたじゃがいもとにんじんを入れたい衝動にかられるが、我慢。
ケチャップ、ウスターソース、水とコンソメ1個入れて煮込むこと1時間。
「酒のつまみにええかも」
夫に言われた。そうやんな。これ、どうみてもつまみやんな。
肉だけでなく、煮汁も美味しかった。色は市販のデミグラスソースなのだが、それよりも重たくない。店の味でも、家庭の味でもない。
言えるのは『デミグラスソースではない』ってことだ。
「これにじゃがいもとか、玉ねぎにんじん入れてほしい」
「美味い。肉、やわらかっ!」の後に出てきた息子の感想。母がこれを作って食卓に置いた時、兄と私も同じことを言っていただろう。記憶にはないけれど。
「そうや、この煮汁であれつくってみよう」
私が思いついた「あれ」。兄と私が思い浮かべたかもしれないもの、かつ、息子が言ったものとは別物。
鍋にあるソース煮の煮汁を使い、私が作ったのは、シチューでもなくカレーライスでもなく、ミートソース。こうして「俺の人生でいちばん美味いミートソース!!」と息子が叫んだミートソースがうまれた。
思い出にない料理を作ってみたら、母の姿を思い出した
牛すね肉のソース煮。思い出にない母の料理だったが、作ってみたら実家の薄暗い狭い台所が浮かんできた。
流し台、その横にある二口のガスコンロ。鍋を火にかけ長時間煮込んでいたら、火のそばから離れられない。
タイマー付き電磁調理器で1時間煮込む、自分との違い。あの頃の母と今の自分では、鍋への気の向け方が大きく違うだろう。
なんで煮込み料理作りたかったんやろな。ふだんは仕事から帰ってきたら、手早く、パパッと料理してたのにな。
そうか。
思い出した。
母はよく、台所で書きものをしたり、新聞や本を読んでいた。
そんなとき、台所の時間がゆっくりと流れていた。
母は、煮込み料理を作りたかった。くつくつという鍋の様子を見ながら本を読み、日記を書きたかったんだ。
職場や家族のなかでの役割から離れた、ひとりの時間が欲しかったんだ。
今は穏やかな気持ちでそんな母の姿や思いを想像できるが、母と私は長年仲が悪かった。
ふつうの母娘のような会話ができるようになったのは、私が大学生になった頃。観た映画、読んだ本、そして料理の話をよくしていた。レシピが入った黒いファイルをプレゼントしたのは、そんな頃だった。
このファイルプレゼントした数年後、母の胃に悪性腫瘍が見つかった。
母は翌年亡くなった。
黒いファイルにあるたくさんのレシピは、整理されないまま残された。
母から継いだレシピで、私の料理を作ろう
全く思い出になかった牛スネ肉のソース煮。作っていると、あの頃の母の姿が浮かんできた。
「これ、やってみよかな」とレシピをメモしたり、新聞を切り抜く母。台所に立ち、そのレシピを見ながら料理をする母。
「美味しそうやな。作ってみようかな」
「みんなは美味しい言うやろか」
そんなことを思いながら、台所に立ち、料理していたのだろうか。今の私のように。
母のレシピを私が継いだ。そして、「最高」と家族に言われる、母が会えなかった私の家族に言われる、ミートソースができた。
次はどれを作ろうかと、私はまた黒いファイルを開けて、母のレシピをひとつ選ぶ。
母と私。ふたりで台所に立つ日々は、これからも続く。