#お笑い履歴書
読んでいて懐かしくなったひな姉さんのnote。
あー、私も好きだった。そうそう、プリプリの大阪城公園のライブ、聖子ちゃんは、大阪城ホールのコンサートも行った、行った。ルミさんがこれに続いた。
ルミさんが10代の頃聴かれていた音楽は、私が20代の頃流れていた音楽。ぴったりその世代の履歴書も楽しいが、ちょっと世代がズレた履歴書もまた楽しい。
この#音楽の履歴書 出発は、ささいな笹さんのこちらだ。
私も書いてみよっかな、と思ったがふと降りてきたタイトルは音楽ではなかった。
#お笑いの履歴書
思い出すまま、芸人さんの名前や好きだったテレビ番組、ラジオ番組を書き出していたら、楽しくて止まらなくなった。これは書かねば。昭和40年代前半(1960年代)大阪生まれの私。かな〜り濃いめの履歴書となりますが、よければしばし、おつきあいのほどを。
●就学前(1960年代後半〜1970年代半ば)
早朝から夕方、時々夜まで、私は祖父母と祖母の義理妹(あーちゃん)と暮らしていた。なので、明治大正生まれの大人たちの影響を色濃く受ける。テレビ番組も当然その影響は濃い。お笑いの最初の記憶は吉本新喜劇。松竹新喜劇も時々テレビで眺めていた。演芸番組では、いとこい師匠(夢路いとし・喜味こいし)が漫才を、笑福亭松鶴師匠が落語をされていた。このへんは、あーちゃん(祖母の義母妹)の好みであった。未就学児の私は、よくわからないが途中で飽きることはなく、最後まで観ていた。流石に浪曲は無理だった。
アニメやロンパールーム、ピンポンパン、今でいう『Eテレ』も観ていたが、覚えているのは花紀京と岡八郎両師匠の新喜劇と笑福亭松鶴師匠の声である。
最初の言語形成期に祖父母(大阪の商人ルーツ)と師匠方の大阪弁を聞いて育ったせいか、大人になると「やわらかめの大阪弁」と時々言われる(ただし私とあまり親しくない人に限る)。
YouTube検索していたら、ダウンタウンの松ちゃんが花紀京師匠について語り、いとこい師匠と一緒に並んでいるテレビ番組が出てきた。笑福亭松鶴師匠の弟子で有名なのは、つるべちゃん(今は鶴瓶師匠)である。
●小学生(1970年代半ば〜1980年)
祖父母宅で過ごすことは少なくなり、平日は日が沈むまで外で遊び、日曜日は家族と過ごしていた時代。お笑い番組は父の影響が大きかった時期だ。
土曜日は学校から帰ったら、焼きそばかお好み焼きを食べながら、『ノックは無用!』を観る。横山ノック、上岡龍太郎両氏の司会による公開トーク番組。毎回数名のゲスト招きエピソードを聞き出していく。この頃から上岡龍太郎氏のファンになる。そのあとは、吉本新喜劇だ。ピアノのレッスンに行くため毎週最後の15分が観れなかった。学校で友達と遊ぶ時は、『パチパチパンチ』や『くっさー』というギャグ、寛平めだか両氏の『猿対猫』話で盛り上がっていた。
日曜日のお昼は『あっちこっち丁稚』と『花の駐在さん』を観て、夕方は『笑点』の後、『ヤングおー!おー!』、晩御飯を食べてサザエさんを観ていた。駐在さん、ヤングおー!おー!両方に出演していたのは、林家小染師匠だった。小学生の私は小染ちゃんのおっきな体とのんびりした口調が好きだったが、若くして亡くなられた。この時期から、父が落語番組をよく観るようになり、つられて私も観始めた。就学前とは違い、話もわかるようになっていた。
亡くなった枝雀師匠、今もお元気な桂文珍師匠 今は桂文枝となった三枝師匠の落語が好きだった。枝雀師匠の大きな身振りと豊かな表情の落語、文珍師匠、三枝師匠の創作落語が好きだったが、いちばん覚えているのは、花王名人劇場でフルで観た桂米朝師匠の『地獄八景亡者戯』だった。
初めてちゃんと観た古典落語だったが、全く古さを感じず、アニメ映画を見ているように脳内で映像が流れた。登場人物たちが生き生きと動くのだ。あまりに真剣に観るので、横にいた父がドン引きしていた。
そこから、落語に興味を持った。図書館で「子ども落語」という落語の話をまとめたシリーズを何冊も借りて読んでいた。
小学校高学年の頃、漫才ブームが起こり、花王名人劇場では落語より漫才の特集が多かった。やすきよ漫才(横山やすし西川きよしコンビの漫才)やオール阪神巨人師匠の漫才は母も好きで、家族で笑って見ていた。今から考えると、小学生から大人まで笑って観れる漫才というのは、すごい。
今見ても面白い。
小学校6年生の時、初めて生の落語を観に行った。駅前デパートの小ホールで、日曜の昼間、落語会が催され文珍師匠が出られるとチラシで見た。お年玉を握って自転車でホールへ行った。目の前で観る落語はテレビよりもっと迫力があった。米朝師匠の地獄八景亡者戯をいつか独演会や落語会で聴きたかったが、叶わなかった。
この頃は、ドリフターズの8時だよ!全員集合!、欽ちゃんの番組なども全盛期で毎日何かお笑い番組を観ていたと思う。だが、今懐かしく思い出すのは、漫才、落語、吉本新喜劇。時々父につられて観た藤山寛美師匠の松竹新喜劇なのだ。それだけすごい芸だったということ、そして、私があの頃の父の年齢を追い越したせいかもしれない。
●中学生(1980年代前半)
これから後は、父ではなく、5歳違いの兄の影響を大きく受ける。全員集合が終わり、土曜の夜の楽しみは『オレたちひょうきん族』に変わった。父とテレビを観ることはなく、兄と観ることが増えた。また、『森田一義アワー笑っていいとも!」が始まった。平日昼間の笑っていいとも!は、試験期間中や学校を休んだ日に観れるお楽しみだった。
親と顔を合わせたくない時代、茶の間でテレビを観る時間より、自分の部屋でラジオを聞く時間が増えた。よく聞いていたのは、MBS毎日放送のヤングタウン。月曜日のさんまちゃん、やしきたかじん氏、阪神巨人師匠、岩崎宏美さんが担当の火曜日が好きだった。あの頃、テレビでもラジオでもさんまちゃんが出ていて、ほんまに売れっ子やったんやと改めて思う。今も変わらず同じテンションなのがすごい。たかじん氏は歌手だが芸人さん並に話が面白かった。話だけでなく、岩崎宏美と二人で歌ってくれて聞き惚れた。
中学生の私は、『芸』より『喋り』の巧さに惹かれ、それを面白いと思うようになっていた。演芸番組で落語を観ることは減ったが、枝雀師匠の『枝雀寄席』は時々観ていた。
中学を卒業したら米朝師匠のところに行こうかと考えていたこともあった。父に相談したら「高校は行っとけ」と言われ断念。その後、落語家さんになろうとは思わなかった。
●高校生(1980年代前半〜半ば)
引き続き、自分の部屋でラジオを聞く時間が多かった。テレビではお笑いより歌番組を観ることが増えていた。この頃好きだったのは、KBS京都『ハイヤング京都』火曜日の文珍師匠。私と周りの友だち5人くらいにめっちゃ人気だった。成田美名子の漫画とチェッカーズと文珍師匠が同並びで話題に上がる、不思議なJKたちだったと思う。
引き続きさんまちゃんの人気は絶大だった。タモリさんが『雑談師』と呼んでいて、納得した。
兄の影響で深夜番組を観始めたのもこの頃だ。『探偵ナイトスクープ』を観たら金曜日の気分になった。局長上岡龍太郎氏、北野誠、越前屋俵太、桂小枝探偵が好きだった。あの頃は最高に面白かった。あまりにくだらない依頼の時は、局長がよく怒っていた。だが、一つの以来から、学術的研究に発展した『アホ・バカ分布考』もあり、その幅の広さが面白かった。
金曜日以外でも、深夜番組が増えていた。鶴瓶ちゃん司会の『突然ガバチョ!』が友達の間で人気だった。公開録画に同級生が当選して、盛り上がった思い出がある。
あれだけ好きだった漫才や落語に触れることも少なくなった。
●大学生(1980年代半ば〜後半)
深夜ラジオから深夜番組へ興味が移った。ラジオはFM Osakaにチャンネルを合わせたまんまになっていた。テレビでは、とんねるず、ダウンタウンが人気で、夕方4時や5時は今と違い10代向けの番組が色々あった。そちらを面白いとは思わず、相変わらずナイトスクープが好きだった。ナイトスクープに加え、兄の影響で観たのが、『上岡鶴瓶のパペポTV』(のちにLIVE PAPEPO 鶴+龍)だった。好きだった上岡氏をまたテレビで観れるわ、あのトークに鶴瓶ちゃんの話が掛け合わされるわですぐ好きになった。
ダウンタウンの深夜番組『夢で逢えたら』も好きで兄と毎週見ていた。お気に入りコントは『おかんとまーくん』だった。この頃からダウンタウンも好きになってきたが、やはり1番は上岡龍太郎氏だった。
●20代(1990年代)
仕事や母の入院、看取りが続きテレビを観ることが減った。会社の先輩に誘われて、落語会へ再び行くことが増えた。米朝一門会、枝雀一門会が多かった。少しずつ、古典落語の本当の面白さがわかり始めてきた。
●30代(1990年代終わり〜2000年代)
桂枝雀さんが亡くなった。20代の頃一緒に落語会によく行っていた当時の職場の先輩と、大阪サンケイホールでおこなわれた追悼公演へ行った思い出がある。
しばらく観ていなかったパペポが終わり、上岡龍太郎氏が引退すると知った。お笑いの流れが変わっていく感じがした。
妊婦時代、つわりが酷く家に引きこもってた時期、テレビを観る時間が一気に増えた。MBS 毎日放送で『ちちんぷいぷい』が始まると、ああようやく夕方が近くなると思った。主婦向けの情報番組でこのあと夕方のニュースにつながる番組だった。
コメンテーターに桂ざこば、桂べかこ(現在は桂南光)両師匠、ハイヒールリンゴモモコ。花紀京師匠の弟子内場勝則座長の妻、未知やすえさんを知ったのもこの頃だ。
息子を出産したあとは、深夜番組を観ることはなくなり、『ちちんぷいぷい』が好きな番組となった。お笑い番組ではなく、情報番組だったけど。
●40代(2000年代後半〜2010年代)
息子が小学生になると、一緒にお笑い番組を観るようになった。めちゃイケ、ピカルの定理は、ほぼ毎週観ていた。息子が小学校高学年になると、ナイトスクープも一緒に観るようになった。局長は西田敏行氏になって、探偵も随分変わっていた。親子でナイトスクープを観れる日が来るとは、と、ちょっと感動した。
この頃、深夜枠で好きな番組があった。ダウンタウン浜ちゃんと東のり(東野幸治)が二人で関西を中心に街を歩く「ごぶごぶ 」だ。仕事と子育てで夜遅くまで起きていられず、時々しか観れなかったが、正月特番は欠かさず観ていた。
相方2代目、ロンドンブーツ淳氏時代の最高傑作。ネタフリからのオチが最高にきれいだった。
息子と漫才を観ることも増えた。笑い飯、中川家、千原兄弟、博多大吉華丸が好きだった。その影響だろうか、息子もいつの間にか「しゃべくり漫才」が好きになっていた。学校休んだ日の『ちちんぷいぷい』と年末のガキ使(ダウンタウンの『ガキの使いやあらへんで』)が好きな大阪の小学生になっていた。
●50代(2010年代終わり〜現在)
この数年は、YouTubeを見る時間が増えた。ここでもやはり、お笑いが好きだ。『毎週キングコング』を観るようになって、キングコングが好きになった。
キングコング西野氏と梶原氏の掛け合いは、昔懐かしいしゃべくり漫才を思い出す。しゃべりできっちり楽しませてくれるコンビだ。
二人の漫才をいつか生で観たいと思っている。
こちらを観るようになって、カジサックチャンネルも時々観るようになった。芸人さんとカジサックのインタビューの回が好きで、博多大吉氏の回は何遍も観てしまう。
思い返せば、子どもの頃見ていた「ノックは無用」で、上岡龍太郎氏が短時間にゲストのエピソードを実にきれいに引き出していた。40年経っても、私は同じようなスタイルが好きなようだ。
今年2020年は、20年ぶりに落語会に行った。文珍師匠の芸歴50周年記念独演会だ。
桂文枝師匠がゲストの日五日目、そしてついに生で聴けると「地獄八景亡者戯」の日のチケットを買ったのだが、コロナが猛威を振るっていた時期と重なり、地獄八景の日は中止となった。
それならばと千秋楽の日のチケットを取り直した。
創作落語も面白かったが、古典落語が面白かった。初めて楽しめたように思う。特に五日目の演目『帯久』は初めて聞いた古典落語だったが、ドラマを見ているように映像が頭に浮かんだ。『お裁きもの』と言われるネタで、笑いはほとんどなく、サゲも地味だ。「このお噺は話し手と、そして聞き手であるお客さんを選ぶ噺でございます。そんな演目ができたこと、本当に嬉しく思います」といったことを、文珍師匠が最後に言われたことがすごく心に残った。
落語を聞き始めて40年以上。ようやく、こんな噺もじっくり聴ける自分になったんやなあと思えた。
今年もあと2ヶ月。このnoteを書きながら、また落語会に行きたくなりチケットを予約した。再びの桂文珍師匠、そして、笑福亭鶴瓶師匠だ。子どもの頃聞いた笑福亭松鶴師匠の落語を、鶴瓶さんの落語で私は思い出すのだろうか。そんな楽しみも持っている。
●お笑い歴約50年の履歴書
さすがに50年。文字数も軽く5000字を超えてしまった。テレビからラジオ、そしてYouTubeへと媒体は変わっても、やはり、生の落語好きは変わらなかった。あと10年、20年経ったら、私はどんなお笑いが好きなばあさんでいるのだろうか。「若い人のお笑いもええな」などと話しているのかもしれない。
長い長い履歴書におつきあいくださり、ありがとうございました。