「須磨の水族館へ行こう」と祖母にわかりにくく誘われたときの話
11月の祝日。そろそろ風が冷たくなる曇り空の日。自宅から自転車で15分のマンションに住む祖母のところへ向かった。
幼いころから母方の祖父母の家で過ごす時間が長かった私は、祖父母の家が私にとってもうひとつの家だった。祖父が亡くなり、祖母が駅前のマンションに引っ越してからも、それは変わらなかった。
私は母と折り合いが悪く、母は祖母(母の母)と仲がいいのか悪いのかよくわからない。そして私は幼いころから祖母が好きで、小学校に上がるまで昼間のほとんどを祖父母たちと過ごしていたせいもあり、祖母と過ごす時間が好き。
そんな三世代の関係だった。
高校生のころまで、週末はよく祖母の住むマンションの一部屋に通っていた。週末は自分の家にいるより、祖母の家にいるほうが落ち着いたからだ。
大学生になるとバイトや遊びで週末の予定が埋まり、数ヶ月に一度訪ねるくらいになっていた。
社会人になって8ヶ月。忙しさを言い訳に、私は祖母の家からすっかり足が遠のいていた。
久しぶりに行った祖母の部屋は、昔とおなじようにきちんと片づけられていて、ちゃぶ台には半紙と筆、硯が置いてあった。80手前の年になって、料理は億劫になったようだが、着物を着ることと書道は続けていた。
祖母の書道と料理は『ほぼプロ』な腕前。でも、それを自慢することはない。自分が話すより、ひとの話を聴くことの方が多い穏やかな祖母。
母も、私も、祖母から継ぎたかったポイントだったが、残念ながら私たち母娘はそのポイントを継げなかった。唯一継いだのは「怒ったらめっちゃ恐い」ってとこだけだった。
久しぶりに訪れたその日も、祖母とお茶を飲んでいた。いつものように、今までと変わらず、静かで穏やかな時間が流れていた。
私は持ってきた本を読み始め、少しうとうとし始めた。そのとき、祖母が突然口を開いた。
『ラッコ』いうのんが須磨の水族館に来たらしいな。あんた、見に行きたないか?
いや、別にそんな見に行きたないし。
「そうか」
しばらく、祖母は黙った。私も持ってきた本を読んでいた。
「ラッコ見に須磨に行きたないか?」
ぼんやりした頭でしばし考えて、わかった。
祖母は須磨に行きたいのだ。理由はわからないが、とにかく今、行きたいのだ。
だが、一人では行きづらく、私を誘っているのだ。
仕方ない、付き合おう。
「おばあちゃん、ラッコ見にいきたい」
そうか。ほな行こか。
私の嘘を聞いた祖母はにっこり笑い、さっさと出かける用意を始めた。
祖母とふたりだけで出かけるのは、何年振りだったか。祖母が歩くペースに合わせて、ゆっくりと駅へ向かった。
電車に乗ること約1時間。須磨駅に着くと、祖母は水族館がある海とは逆方向へ歩き出した。
「水族館の前に、ちょっと寄りたいとこあるねん」
普段あまり「これがしたい」「ここ行きたい」と言わない祖母が、ここまではっきり言うのは珍しい。どこへ行くのかわからないまま、私は黙ってついて行った。
祖母が向かったのは商店街だった。シャッターを下ろした店が多く、静かな商店街をふたりで黙って歩いていた。
突然祖母が振り返って話し始めた。
驚いて祖母を見た。幼いころからずっと、祖父母は仲が悪くて、祖母は祖父のことが嫌いと思っていたからだ。
「おじいさんは、ほんまに…」
と祖父への愚痴と文句しか聞いたことがなかった。幼稚園から帰ってきた私を祖父が誰にも言わずに神戸や大阪まで連れ出すことがよくあった。楽しい時間を過ごした後、帰ってきたら祖父が祖母に叱られ、私もついでのように叱られた。
祖父母が会話していた記憶もない。親戚の集まりと毎日の食事の時間以外は、家の中でふたり別々にいた記憶しかない。
「おばあちゃんは、おじいちゃんが嫌いなんや」
子どもの頃ずっとそう思っていた。
自分の記憶と、目の前で祖母がつぶやいた言葉のギャップが大きすぎて、言葉が出なかった。
私は祖母に聞きたかったが、黙っていた。
今ならそんな直接的な言い方ではないにしても、祖母に聞きながら話を続けられたかもしれない。祖母も話したいことがまだまだあっのかもしれない。
「そうやったんや」
23歳の私が祖母に言えたのはそれだけだった。
私が呟いたあと、二人でラッコを見に須磨水族館へ向かった。
対話という、対話をしたわけではない。祖母がそれを話してどう思ったのか。それもわからない。それでも、あの時、祖母と私の関係が変わった気がした。
日が落ちて暗くなったころ、ようやく家に帰った私に、「えらい長いことおばあちゃんちおってんな。なんかあったんか?」と母がきいた。
「おばあちゃんと、須磨の水族館にラッコ見に行ってた」
「須磨にラッコ見に行ったん?」母が驚いていた。
それ以上は母に話してはいけない気がした。祖母と二人で見た須磨の町。祖母が恥ずかしそうに、でも幸せそうに微笑んだこと。私はその後、誰にも話さなかった。
一緒に須磨に行ってから半年後、私は祖母が入院する病院へ行き、久しぶりに祖母に会った。静かに寝ている祖母の横で本を読んでいたら、祖母が目を覚ました。
「ああ、あんた来てたんか」
うん。
「外、雪、降ってへんか?」
え? 雪?
そんなん降ってへんで。今6月やし。
私が答えると、祖母は小さな声で、
「そうか」
と言い、また眠ってしまった。
その後家に帰ってすぐ、電話が鳴った。
「真澄ちゃん、すぐ病院来て!」
電話を取ると伯母の叫ぶ声がした。病院から祖母が危篤だと連絡があったらしい。私が両親と祖母のもとへ駆けつけた時には、祖母は亡くなっていた。
伯母がかけつけたときには、すでに祖母は意識がなかった。祖母が最後に話した相手は、私だった。それなのに、祖母の最後の言葉に、祖母に寄り添う言葉がかけてあげられなかった。
「おばあちゃん、雪見えたん?」
そう言えたらよかったのに。
「ラッコ、見に行きたい」
ってあのとき嘘をついたように、
「そうやな。雪降ってきたな」
と嘘をついてもよかったのに。
「雪なんて降ってないで。今、6月やし」
なんで、そんなやさしくない言葉しか返せなかったのだろう。
あの頃、もう少しだけ相手に寄り添える心と言葉を持っていたら。
ずっと後悔し続ける、私の『忘れらない対話』だ。