占子の兎(しめこのうさぎ) 第一章 鐵蔓(てっかずら)
あらすじ
都会での多忙な生活に疲れ、故郷である命樹(みことぎ)市に戻ってきた竹栢縁八(なぎ よしや)。郊外の祖月輪町(そがわまち)に中古の住宅を買い、フリーランスで仕事をこなす傍ら、長年の夢だった趣味の鉄道模型を楽しむ日々を送り始めます。ところがほどなくして、心地よい暮らしの中に、不穏な影を感じるように。
窓ガラスの修繕を依頼した業者の青年は、縁八と同郷の美籠山(みこやま)の出身。代々呪術師の家系の青年は、不穏な影の正体は生霊ではないかと考え、縁八に「鐡蔓(てっかずら)」という呪術をかけます。
その夜。寝室で休んでいた縁八(よしや)さんは、あまりの息苦しさで目を覚ましました。
見ると、仰向けで寝ている胸の上に、見ず知らずの少年が、馬乗りになっているではありませんか。縁八さんは、とっさに少年の手を振りほどこうとしました。けれども見た目にそぐわぬ物凄い力で、したたか喉元を抑え込まれ、縁八さんは、恐ろしさと息苦しさで、声も出せません。
「ねぇ、母さんはどこ」
少年は、つるりとした人形のような顔で、床に転がり落ちた鉛筆でも探すような様子で言いました。
「な、なんのことだ」
かろうじて声を絞り出し縁八さんは訊きました。少年は唇を歪め、泣き出しそうな表情を浮かべましたが、すぐにまた、人形のような顔に戻り、
「母さんを返して」
と、詰め寄りました。
「知らないよ、何を、言っているんだ」
「ぼくを一人にしないで」
少年の声は小刻みに震えていて、今にも消え入りそうです。けれども首に掛けられた両手は、さらに力がこもり、細い指先が縁八さんの喉元に、じりじり食い込みます。
「放せっ! 」
鉛のように重い両腕を持ち上げ、少年の薄っぺらい両肩を、がっ、と掴んで引き離し、縁八さんは、ベッドから弾かれるように飛び起きました。息を切らし、手探りで枕元の明かりを付けました。しかし、少年の姿はどこにもありません。急いで眼鏡をかけ、もう一度、辺りを見回しました。室内は荒らされた様子もなく、縁八さんは、ふらつく足取りで寝室を出ました。まずは、隣の仕事部屋の様子を確認しますが、とくに変わった様子はありません。それから、慎重に階段を下りて、玄関ホールの明かりを付けました。ドアは施錠されたままで、やはり変わった様子はありません。
縁八さんは、恐る恐る居間のドアノブに手を伸ばしました。ここには、これまで大切に集めてきた鉄道模型のコレクションがあります。そのとき。縁八さんはふと、足下に微かな空気の流れを感じて、居間とは反対側のほうのドアを思い切り開け放ちました。
真っ暗闇のなか。台所の窓硝子が大きく割り破られているのが見えました。
冷ややかな夜風は、そこから流れ込んでいたのでした。
「ええ。暫く空き家だったんですが、元々、借家として使われていたそうです。借主さんは、外国の方が多かったようで。アメリカ人の宣教師さんとか、兎遣山(とつかやま)で長いあいだ英語を教えていらしたカナダ人の先生とか。オーナーさんは兵庫県にお住まいですが、昨年ご主人が亡くなられたそうで。もう、こちらに戻る予定もないので、売却することにしたそうです」
案内された家は、命樹市(みことぎし)郊外の祖月輪町(そがわまち)。さらに、その西端の、ひなびた住宅地のなかにありました。市境の緑地帯と水田に囲まれた小さな区画は、じつに静かで落ち着く環境です。南面道路の整形地に二階建ての木造家屋のほか、庭と駐車場があり、日当たりも申し分ありません。
不動産屋さんの説明のとおり、築年数のわりには傷みも少なく、屋根の補修と外壁の塗装費用は命樹市が持ってくれる、というのも魅力的な条件です。しかし、何より縁八さんが気に入ったのは、この家の広さです。間取を見る限り、二階に寝室と仕事場を確保しても、一階の居間と、八畳、六畳二間続きの和室を解放すれば、長年の夢だった、HOゲージのレイアウトを思う存分楽しめます。
「二階もご覧ください。きっと、気に入っていただけると思いますよ」
不動産屋さんは自信あり気にそう言うと、すたすた薄暗い階段を上っていきました。
二階。広々とした洋間には、三畳のたたみコーナーとミニキッチンが付いていて、南側の窓は掃き出しになっています。不動産屋さんが勢いよく雨戸を開けると、真っ暗な部屋のなかに、乾いた空気と晩秋の陽光が一気に流れ込み、床に積もった埃が渦を巻いて舞い上がりました。
「どうぞ、祖月輪線(そがわせん)が見えますよ」
促されて、縁八さんは、バルコニーへ出ました。
県道の向こう側を、かたんたん、かたんたん、軽快に軌道を踏み鳴らし、四両編成の列車が近づいてきました。地域鉄道・祖月輪線は、長く「月天子(がってんし)」の愛称で親しまれている気動車両です。側面の瑠璃色は夜空を。レモンイエローとパールホワイトの二本のラインは月光を表しています。
「わぁ。これは、いいですね」
この家がすっかり気に入った縁八さんは、内見後すぐ、契約書にサインをしました。
それから数カ月が経った、早春の吉日。無事、引っ越しを済ませた縁八さんは、ささやかな品を携え、ご近所へ挨拶に伺いました。
東隣の素川(しらかわ)さん、西隣の葦原(あしはら)さん。それから、空き家になっている一軒を除き、道路を挟んだ向かい側の檀(だん)さん、そして、稲井(いねい)さん。
どの家の人も、みな穏やかで常識的な印象を受けましたので、縁八さんは、ひとまず安心しました。
寝室に戻った縁八さんは、ベッドに腰かけると、両掌で顔を覆い、深く溜息をつきました。
「嫌な夢だ…」
思えば、おかしなことは、これまでにも、何度かあったのです。朝、新聞を取りに出ると、郵便受けの中に落葉や紙屑がぎっしり詰まっていたり。
門扉の前に水草の絡まったヒキガエルの死骸が置いてあったり。
おとといの朝は、東側の柵に黒いタールのようなものが大量にこびり付いていました。
「もし、お困りの事がありましたら、ご連絡ください」
縁八さんは引っ越しの翌日に、巡回中の駐在さんから電話番号の入ったカードを渡されたことを思い出しました。けれども、
(この程度のことで、警察に相談するのもなぁ…)
と、躊躇う気持ちも同時に過りました。一目で気に入り、買ったばかりのこの家で、まだ暮らし始めたばかりなのです。むやみに事を荒立て、ご近所との関係が気まずくなるのは、やはり避けたいところです。
「やっぱり防犯カメラ付けるか。出費が嵩むなぁ」
縁八さんは、もう一度、深く溜息をつきました。
翌朝。寝不足の体を押して、縁八さんは仕事に取り掛かりました。フリーになって最初の締め切りも近づいています。昨夜から続く緊張で疲労困憊していますが、手を抜く訳にはいきません。都会暮らしの気楽さや、組織のなかでの安住感が、今となっては懐かしいですが、もう戻りたいとは思いません。
縁八さんは椅子の背もたれに体を預け、ぐぅっ、と大きく伸びをしました。机の上のマグカップに手を伸ばしたとき、
「すいませーん。サッシ交換終わりましたんで、確認お願いしまーす」
階下から勢いのよい声が飛んで来ました。
「はい。今、行きまーす」
縁八さんは、開いたままのドアに向かって、返事をしました。時計を見ると、正午を少し過ぎています。パソコンの電源を切り、ミニキッチンの冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと、仕事部屋を離れました。玄関では、作業着姿の硝子屋さんが待っています。
「ご苦労様。すぐに来てくれて助かりましたよ」
縁八さんは硝子屋さんに、ペットボトルのお茶を差し出しました。
「あぁ、どうもすみません」
硝子屋さんは、外した手袋を急いでズボンの後ろポケットに仕舞って、両手でペットボトルを受け取りました。
「窓が破れたまんまじゃ、どうにもならんですもんね。明日はまた、雨だって言うしね」
硝子屋さんは、そう言うと、縁八さんを台所へ促しました。
「まず、室内(なか)から見てください」
「ここと、ここ。ダブルロックになってます。換気したいときは、少し開けた状態でもロック掛けられますんで、安心だと思います」
説明を聞いて縁八さんは、早速、窓の開閉を確かめました。取り替えたばかりのサッシは、動きも軽く滑らかで、施錠も解錠も指一本で出来ます。
「やっぱり、新しいものは良いですね」
縁八さんが言うと、
「ありがとうございます」
硝子屋さんは誇らしげに微笑みました。若々しく精悍な顔立ち。両方の耳には、小さな銀色の鐶(わ)が光っています。
「外も見てください」
二人は勝手口から外へ出ました。
「もしかして、ここもやられたんですか」
割り破られた窓の、丁度真下あたり。黒く汚れた柵を指差し、硝子屋さんが尋ねました。
「うん。窓よりこっちのほうが先にね」
苦笑いを浮かべて、縁八さんがこたえると、
「酷ぇなぁ」
硝子屋さんは、眉をひそめて呟き、窓のほうに向き直りました。
「コーキングが、だいぶ傷んでたんで、補強しときました。あと…」
言いかけて、硝子屋さんは、汚れた柵に再び目を遣り、
「防犯のこと考えたら、面格子は付けたほうがいいですね。今の時期だと、ちょっと、お待たせするかも分からないけど、うちでもやりますよ」
硝子屋さんは、ポケットから名刺ケースを取り出すと、一枚を縁八さん差し出しました。
「また、電話かメール頂ければ。見積もりなら無料なんで」
名刺には、『(有)ケーン・ガラスサービス 主任 鬼囲 伍(おにかごあつむ)』と、あります。
「そうだねぇ…」
受け取った名刺を見つめながら、縁八さんが思案していると、
「あの、旦那」
少し躊躇うように、鬼囲さんが切り出しました。
「俺、ちょっと気になったことがあって」
「ん、どんなこと」
「ここの硝子なんですけど。さっき旦那、夜中に外から割られたって、言ってましたよね。
でも、破片は家の外に落ちてたんですよ。普通、外から何か投げたり、叩いたりして割ったら、破片は室内(なか)のほうに散らばるじゃないですか。台所には破片、ほとんど無かったですもんね。これ、ほんとは室内(なか)から割れたんじゃないですかね」
「じつはね、ちょっと言いにくいことなんだけど」
前置きしたうえで縁八さんは、昨夜の出来事について話しました。
「まぁ、夢だって言われれば、その通りなんだけどね」
「いや。夢じゃぁないと、思いますね」
縁八さんの話を、黙って聴いていた鬼囲さんは、開けたばかりのペットボトルの飲み口をじっと見据えたまま、低く呟きました。
「てか、その程度のこと鵺(ぬえ)や物怪(もののけ)なら当たり前にしますよ。奴は、ここから逃げたでしょ」
鬼囲さんは、まるで獲物を射抜くような眼差しで、真新しい窓を見据えました。
「浮遊霊だとか、生魑魅(いきすだま)なんかだと、まだ、体の感覚のほうが強いから、やたら物音立てたり、ぶつかって物壊したりとか、するんですよ」
急に向けられた鬼囲さんの鋭い眼差しに、圧倒された縁八さんは、掌の名刺に視線を落としました。
「あの…鬼囲(おにかご)さんって、美籠山(みこやま)のひと? 」
「はい。ってか、親父の在所が美籠山です。俺は、篠ヶ原(すすがはら)の団地で生まれたんですけど」
不意を突かれて、鬼囲さんの目元が緩みました。縁八さんは、すかさず
「字(あざ)は、魕背戸(げせど)」
と、言い切りました。
「はい、そうです。昔、じいちゃん家(ち)がそこにあったって。旦那、詳しいですね」
鬼囲さんは、驚いたように縁八さんを見つめました。
「うん。僕の母親の在所も美籠山だからね。字は火床(ほど)」
「火床、っていうと、氏(うじ)は、熾火(おき)?」
「あぁ、熾火姓は本家だね。母の旧姓は橡(つるばみ)って、言います」
「うちのばあちゃんと同じだ」
鬼囲さんの瞳が、ぱっ、と輝きました。
「そうなんだ。辿って行ったら、どこかで繋がるかもしれないね」
縁八さんが微笑むと、
「そうっすね。へぇ」
鬼囲さんは、すっかり打ち解けた様子でペットボトルのお茶を、ぐっ、と飲み干しました。
「そうだ、旦那。鐵蔓(てっかずら)懸けましょうか。俺、小ちゃい頃から仕込まれてるから、こう見えても、筋が良い、って、結構褒められるんですよ」
「鐵蔓か…懐かしい響きだなぁ。さすが『鬼囲さん』だね」
縁八さんも気持ちが解れて、
「これも何かのご縁だし、ひとつ、お願いしようかな」
「承知です。じゃ俺、準備しますね」
鬼囲さんは、道路に停めたバンに向かいました。
ハッチを開け、空になったペットボトルを放り込むと、工具箱の中から、玄能と五寸釘、チョーク棒。それから、麻紐の束から三尺程を切り取って、庭に戻りました。
鬼囲(おにかご)さんは、ざっと敷地を見渡し、西側の植込みのあたりに行きました。そして、
「ここ、池、埋めてますね」
冬青(そよご)の根本を靴底で示し、
「と、すると…水路は、こっちだから」
身をかがめて地面を追い、目星を付けたあたりに掌を翳し、
「ここだな」
そう言って、チョーク棒で印を付けました。
鬼囲さんは印のところに、麻紐を巻き付けた五寸釘を打ち込み、もう一方の端に環を作って、チョーク棒を潜らせ、紐を目一杯張りながら一周して円を描きました。
次に鬼囲さんは、作業着のポケットから磁石を取り出し、北北西二十度に方位を定めると、円周上に印を付けました。そこを起点にして、さらに五つ印を付けると、円の内側に六芒星を一筆で描き、結界を張りました。
「へぇ、上手いもんですね」
縁八(よしや)さんが感心して言うと、鬼囲さんは照れたように、えへへ、と笑って、
「慣れですね。お客さんとか知り合いとか、いろんなとこから頼まれるからね」
そして、結界のまわりを一周して確かめると
「よし」
と、頷いて
「すみません。水道お借りします」
鬼囲さんは、駐車場脇の立水栓で手と口を軽く濯ぎ、頭に巻いたタオルを取って口と手を拭いました。赤銅色に染めた長い髪が日差しを受けて、きらきら輝きました。鬼囲さんは、タオルをベルトのチェーンに引っ掛けると結界に戻り、縁八さんから、お米の入った小さなポリ袋と、お酒の小瓶を受け取りました。
「それじゃ、浄めますんで。なかへ入ってください」
鬼囲さんは、縁八さんを結界に促しました。
縁八さんが六芒星の中心に立ち、南南東二十度の方角を向くと、鬼囲さんは、起点の三角の頂点から順に、時計回りにお米を撒いて行きました。それから同じく時計回りに、お酒を注いで行きました。最後の角を一つ残したところで鬼囲さんも結界に入り、なかから、お米とお酒で清め結界を閉じました。
鬼囲(おにかご)さんが縁八(よしや)さんの真後ろに立ち、呼吸を整え、身構えたそのとき。いきなり
「あ、」
と、呟き、肩越しに尋ねました。
「あのぅ、一応聞きますけど、身に覚えは無いですよね」
「えっ?」
鬼囲さんの質問の意図が汲み取れず、縁八さんは聞き返しました。
「んー、何ていうか。その…まえに女関係でやらかしたとか。その手の生魍魎(いきすだま)なんかだと、結構、性が悪いんで。もしかしたら、一回じゃ片付かないかも」
「あぁ、そういうこと。なら、無いね。多分」
「多分?」
「いや、無い。」
慌てて振り切った縁八さんですが、鬼囲さんは、すかさず、縁八さんの仙骨の辺りに掌を翳し、様子を窺います。
「うん、大丈夫そうですね」
しばらくすると、納得したように頷きました。
「え、なに? 何が大丈夫なの」
縁八さんが尋ねると、
「このへんにね。びりびり、来る感じがあるんですよ、やばい人だと。旦那は、それが無いから大丈夫です」
鬼囲さんは、あっさり答えましたが、縁八さんは、やはり気になります。
「やばい人って、どんな人? 」
「なんつうか…あっちのほうが、お盛んな人ですね」
「あ、そぅ。」
初対面でなお且つ、自分よりも十歳は年下であろう鬼囲さんから断言されて、縁八さんは、如何ともし難い気持ちになりましたが、そんな縁八さんの心の内など察することなく、
「じゃ、始めますね」
鬼囲さんは、明るく声を掛けました。
「はい、お願いします」
縁八さんは、ふぅー、と、息を吐いて気を取り直し、静かに目を閉じました。下肚辺りに意識を集中します。
鬼囲さんも再び呼吸を整え、身構えます。まずは右手で指十字を作り、それを左の胸に当て、さらに呼吸を深めます。
集中が極まったところで、指十字を高く挙げ、縁八さんの貝殻骨の真ん中辺りを狙って、井形を描き、九つの枡を作ります。ここまでが一呼吸。
再び呼吸を整え、指十字を口元に据え、咒(ことば)を唱えます。それから、一から九までの数文字を一氣に枡の中へと書き記し、
「哪(だ)っ! 」と、一声。
中心枡の『五』を、斜め十字で締め括り、大きく一呼吸。それから、左の掌で指十字を覆い隠し、胸の前へと引き寄せます。再び咒を唱え、指十字を解き、
「拝(はい)! 」と、一声。
縁八さん、鬼囲さん、共に一礼して、無事、鐵蔓(てっかずら)を懸け収めました。
鬼囲さんの合図で、縁八さんは、結界を離れました。
不思議なことに、さっきまで靄のように燻っていた感情は消え去り、視界も冴えて、あたりの風景が生き生きと新鮮に映ります。
「凄いなぁ。こんな本格的に懸けてもらったの、初めてですよ。おかげで今夜は、ぐっすり眠れます」
縁八さんが感心すると、
「ほんとですか。よかったです」
鬼囲さんは、竹箒で丁寧に結界を払いながら言いました。
「鐵蔓(てっかずら)」は、命樹の、とくに、丘陵地区に伝わる「まじない」の一種です。
陰陽道や修験道で用いる九字切りのようにも見えますが、鐵蔓は、「魔方陣」と云われる、数の羅列を用いるのが特徴です。縦、横、斜。いずれの合計も「十五」になるよう、一から九までの数を枡に収めます。
元々は「数羅」と書くらしいのですが、いつしか、同じ読みの「蔓」の字が当てられたようです。その後、より強固なものの喩えとして「鐵」の字を添えた、と考えられています。
数の並びは、上段の列から順に、
「憎し(二九四)とて、締め(七五三)て、祓い(八一)て睦(六)ぶ十五夜」
と、覚えます。
いつ頃からの伝承なのかは分かりませんが、命樹(みことぎ)の人々は、あらゆる祈願や厄災除けに、この鐵蔓(てっかずら)を用いてきました。冠婚葬祭をはじめ、建築、建墓、開業などの折には、鬼囲(おにかご)さんのような呪術師を喚(よ)び、古式に則り執り行うこともありますが、大方は、身内や親しい者同士、しめやかに行う場合がほとんどです。祝賀、餞、あるいは魔除けのため、慈愛を込めて互いの背中や掌に、小さな蔓を懸け合います。
「にくしとて しめて はらいて むつぶ十五夜、か…」
玄関先で縁八さんが独り言を呟くと、まるで聞こえていたかのように、
「旦那、今夜は三五之夕(さごのせき)ですね。でも、この様子だと、月見は無理かな」
鬼囲さんは、ちら、と空を仰ぎ見ました。たしかに、青空のところどころに、雲の塊が寄り集まって、風も次第に強くなってきています。
「三五之夕ねぇ…ほんと、鬼囲さんからは、懐かしいワードが次々出てくるね。この辺りは今でも毎月なの」
「そうですね。うちのじいちゃん、ばあちゃんは、今でも毎月、供え物してやりますけど。
親父なんかは、ただ、酒飲む口実にしてるだけですね」
風に煽られる髪を、ゴムで纏めながら、鬼囲さんが言いました。
「それは、今も昔も変わらないよ。飲みたい人には、三五之夕ほど都合の良いものは無いもの」
縁八さんが言うと
「ですよね」
養生シートを畳みながら、鬼囲さんが頷きました。
「それじゃ、これで作業は終了になります。請求書は、また後日郵送しますんで。本日は、ご用命戴き、ありがとうございました」
片付けが終わって、鬼囲さんが挨拶をすると、
「こちらこそ、今日はいろいろありがとう。これ、気持ちばかりだけど」
縁八さんは、用意したばかりの心付けを差し出しました。
「えっ、そんな。いいですよ」
断ろうとする鬼囲さんに、
「いいから。ほんの少しで申し訳ないけど、肴の足しにでもしてよ」
縁八さんは、手にした包みを、半ば押し付けるようにして勧めました。
「そうですか。じゃあ、遠慮なく戴きます」
鬼囲さんは、深々とお辞儀をし、手刀を切ると、丁寧に包みを受け取りました。
「どうぞ、今後とも御贔屓に」
帰りしな、門の前で鬼囲さんが清々しい笑顔を見せると、雲の切れ間から陽光が射して、ひととき庭を明るく照らしました。
二章につづく