デヴィッド・ボウイ〜間借り人はどこに間借りしていたのか?〜

 映画の中盤、調和が極まった『サウンド・アンド・ビジョン』のイントロが、様々なコラージュ・フラシュに乗って、左右のスピーカーからまるで物質のような感じで出現してくる。これがもう白眉。
 この曲を生み出せたからボウイは死なずに済んだのだな。そう心から祝福したくなる歓喜のサウンド。架空の宇宙人ではなく、この世界の肉体と魂が享受できるサウンドとビジョン。彼の生涯をも定義するこのキーワードの発明は、こちらが思っていたよりずっと早くに着手されて実践されていたのではなかったか。
 自分のことを「白紙のキャンバス」と言っていたボウイには、白紙だから何回でも上書きできるし、消すこともできる。ではなく、白紙だからひとつずつ丹念に塗っていくんだ、人生を手に入れていくんだとする意志が最初からあったとする監督のメッセージが心地よく伝わる。
 この映画を見る前、私は20代のボウイが、勘違いのスター気取りの傲慢さと偏見に満ちていればいいなと思っていた。その靴はバイセクシュアル専用ですか?などと聞かれると「あなたの靴も相当奇妙だね」などと言い散らかす姿だ。死んだから言うんじゃないけど彼ほど良い西洋人を取材したこともない。いつも最初ボウイはちょっとしたジョークを冒頭に持って来てから本論を熟慮で返す。その儀式は必ずつまらないのだが、そこにはコミュニケートしようとする配慮が漲っていた。 
 でも当時の彼は「僕の個性なんていうのは、まさに切って貼ったものです」「人生は無常。ならばこの今に全部を投げ込んでみせたい」などという意味のことを言っていて、それは論理としては正しいし、ものすごくかっこいいが、いつか破綻していくシニカルな観念ともなる。実際この頃のボウイ映像は「あいつやべーよ!やべーよ」というおっかなさと面白さである。いつ、そこから修正したのか?
 ボウイは非常に頭のいい人だったので、防波堤も用意していた。それが『チェンジズ』である。もっともっとを要求されて潰されてしまう前に何か他のものになって、前のキャラは封印してしまう。この辺の兼ね合いがいまいち分からなかったのだ。
 こうした構造への総括は、ボウイが45歳結婚の時に出した『ジャンプ・ゼイ・セイ』(そこから飛んでみてよ!)でやっと相対化され、映画もこの後、ほぼまっしぐらに最終作に移動する。笑ってしまいそうになったけど全く正しい。
 そうして、最後から二番目に『スターマン』が字幕と共に炸裂する。地球人に気を使って姿を現さないなんて、どんだけスマートでチャーミングな宇宙人なんだよ!ここですでにボウイは間借り人ではあっても、ボウイだったんだね。
 ポップ・アート時代のロックスターの残酷と歓喜が紙一重で映し出されていることが象徴的だった。今はこのような身投げの理論はもうない。


ここに間借りされても……。

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