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『飯炊き女と金づる男』 #10 家計の事情

キャッチボールで言えば、ボールは若きファイナンシャルプランナーの小鯛(こだい)さんに渡っていた。

益次郎は小鯛さんの視線を追いかけて、「教育資金の備えは万全ですね」というボールが投げ返されるのを待ち構えていた。それでこのキャッチボールは終了するはずだった。

「それでは、いくつか質問させていただきますね」
質問票を見終わった小鯛さんがそう言うと、益次郎はうなだれた。

「どうかなさいましたか?」
覗き込むように聞いてきた小鯛さんに、
「…いえ、何でもありません。質問受け付けますよ」
と答えると、益次郎はソファに深く座り直して、態勢を整えた。

「それでは収入についてお伺いしますね。奥様の月収が0円となっていますが、奥様は専業主婦でいらっしゃいますか?」
「うーん。一応、働いてはいます。在宅ワーカーです。文章の校正とかデータ入力とかを細々とやっているみたいです。でも、収入はそんなに無いはずだし、妻の収入は抜きで考えていただいて構いません」
「なるほど、なるほど。奥様の収入を抜きで、ですか…あ、あとボーナスですが。こちらも0円となっていますが…」
「そうなんです。そこは少し気になっています。実は、去年ボーナスが出なかったんです。今年はどうかなあ、今年もたぶん出ないと思うんですよねえ。ただ、貯金はあるし、ボーナスが無くても大丈夫、ということは確認したいですね」
「なるほど、なるほど。今後はボーナス無しという見込みなんですね。ボーナスを家計に組み込まないというのは、割とアドバイスさせていただいているんですよ。ただ、そうすると、収入は月に30万円、しか無いということですね」
しか、という言い方が気になったけれど、益次郎は飲み込んで「そうです」と答えた。

「えーと…次に支出なんですが…」

◆支出
・食費~保険料まで 17万円
・住宅ローン 10万円
・車両費 5000円
・交際費・娯楽費 2万円
-------------------
・月額合計 29万5000円

「衣食住にかかる費用と保険料を入れて、月に17万円の支出でお間違いないですか?」
波括弧で括られた箇所に目を落として小鯛さんが聞いた。
「間違いが無いというか、毎月27万円を生活費口座に入れています。そこまでが僕の役割で、そこから先のことは妻の役割なんです。だから、詳細は妻に聞かないと分かりません」
益次郎は正直に答えた。

「なるほど、なるほど。家計の管理は奥様に丸投げ、ということですね」
丸投げ、という言い方に益次郎はムッとした。

「いやいやいや、それは違いますよ。役割分担ということです。27万円の中には住宅ローンの10万円が含まれていますので、27万円-10万円=17万円が生活費。これまで妻からは何の文句も不満も言われたことはありません。17万円で生活は回っているはずです」

小鯛さんはパソコンの画面を見た。
「なるほど、なるほど。住宅ローンも当行をご利用いただいていますね。ありがとうございます。確かに月々10万円の返済プランになっていますね」

「嘘は言っていませんよ」
益次郎は胸を反らして言った。

「すみません、すみません。収入はご主人様、支出は奥様がご担当というお考えなんですね…なるほど、なるほど。では、交際費・娯楽費なんですけど。こちらはご主人様の、いわゆるお小遣いということでしょうか?」

「まあ、そうですね。ただ、小遣いと言っても、平日の朝ごはんと昼ごはんの食費、それに医療費がほとんどです。初対面の方に言うことでは無いかもしれませんが、僕はパニック障害という病気のせいで週に1回通院しています。ご存知ですか?パニック障害。最近では、芸能人がなることも多いみたいですね。しかし、芸能人はいいですよね、休養できて。僕みたいなサラリーマンが休養しようとしたら、会社を辞めるしか無いですからね。つらいけど騙し騙し頑張るしかないんですよね…」

「なるほど、なるほど。メンタルヘルスは難しい問題ですよね。先日、俳優の方が自殺したニュースを見かけました。お大事になさってくださいね」
パソコンの画面から目を離さず、マウスをころころと操作しながら返事をする小鯛さんに、心が無い、と益次郎は感じた。

ニュースになっていた俳優の病名はうつ病であった。益次郎はその間違いを指摘したかったけれど、言い出せなかった。小鯛さんはさっさと次の質問に移っていた。
「ところで、住宅ローンの10万円には管理費や固定資産税は含まれていませんよね?」
「…えーと、妻に聞かないと分からないな。固定資産税って何です?」
益次郎からの問いは小鯛さんには余計なことだったらしく、
「あ、不動産にかかる税金です」
とだけ言って、
「車両費をお見受けするとガソリン代だけが書かれていると思われますが、駐車場代と自動車税はどうされていますか?」
と、さらに質問を続けた。

「…うーんと、どうしているんだろう?毎月の17万円でやり繰りしていると思うんですけど、妻に聞かないと分からないな」
「なるほど、なるほど。そうですよね…」

小鯛さんは益次郎には正対せずに質問を浴びせ続けた。
車はどうしても必要なのか?
お嬢様は塾や習い事には行っていないのか?
奥様とお嬢様の服のサイズを知っているか?
上のお嬢様は文系と理系のどちらか?
保険は何に入っているのか?
水廻りでリフォームが必要になっている箇所は無いか?

自身で答えられるものが減っていくと、益次郎は俯いて「妻に聞かないと分からない」と繰り返すばかりになった。そう言われてみれば、どうしたんだっけと思うことはあった。

千魚(ちか)はマンションの管理組合で理事長をやっていた。管理組合の役員が順番で回ってきた時に、千魚は益次郎に「やって欲しい」と懇願したけれど、益次郎は「仕事が忙しい」と一蹴した。

ヤマメと同い年のマンションは築18年になる。修繕のための積立金が足りず、管理費を値上げするしかないと言っていた。管理費は値上げしたのだろうか?

風呂のシャワーから四方八方に水が飛び散るようになったことがあった。ヤマメもイワナも花火みたいと喜んでいたけれど、本来の用を成さなくなった。それもいつの間にか直っていた。

キーボードを叩く音に、益次郎が顔を上げると、小鯛さんから笑顔が消え失せていた。スイッチが入ったかのようにパソコンを操作しては、しきりとメモを取っていた。

不意に益次郎の防衛本能とも言える予感が働いた。これまでの尋問のような質問がチェックメイトへの布石のように感じられた。何か良くないことが起こる。焦りを感じ始めた。焦りは不安になり、緊張となった。

不安が下腹で蠢き、緊張が脳に伝わった。ブースを囲んでいる左右のパーテーションは、こんなにも高い壁であったろうか。のしかかるような圧迫感を感じた。

給料を生活費口座に移動させるため、ただそれだけのために銀行に来たのだった。それさえやってしまえば後は千魚が生活を回してくれる。そうだ、これまでもそうしてきたのだ。この場から離れなければならぬ、次の質問が来る前に「もう結構です」と言って席を立とう。そう思ったけれど、遅かった。

「お疲れ様でした!それではファイナンシャルプランナーとして、ご提案をさせていただきます!」
小鯛さんがそう言うと、益次郎の頭の中でドラムロールが鳴った。

ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ ドゥロ、ジャン!
「教育資金を含めた、今と未来の暮らしについて、奥様とじっくりお話しされることをご提案します!ご主人様の収入と貯金だけではお子様の教育資金は間違いなく不足します!」
小鯛さんが力強く宣言した。

釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせている益次郎を横目に、小鯛さんは声のトーンを落として説明を加えた。
「このあたりの相場をきっちり調べました。ご主人様が生活費口座に入れている17万円では、やはり足りません。今の暮らしは、奥様の収入と合わせて初めて成り立っていると考えるべきです。マンションの管理費、固定資産税、自動車税、駐車場代。ほかにも学校の給食費や制服代、普段の被服費や通信費、家の修繕費用や家電の買い替え、けっこう掛かるんですよね、暮らしって」

益次郎には到底納得できる提案では無かった。
「いやいやいやいや。そんなはずはない、そんなことがあるわけがない。生活費が足りないとか増やしてほしいとか言われたこと無いし」
益次郎が力を振り絞って否定すると、小鯛さんは少し考えて、
「愛、ではないでしょうか?」
と言った。

さらに、
「妻に聞かなければ分からない、と計8回おっしゃっていましたよ。恐れずに、実態を知ることから始めましょう」
と、冷淡に付け加えた。箱の中に残っているはずの希望は打ち砕かれた

「こちら、ご参考までに。当行で扱っているサービスのパンフレットになります。よろしければご検討ください」
小鯛さんは投資について書かれているパンフレットを益次郎に押し付けると、深々と一礼した。一方的とも言える終了の合図に、益次郎はそれでも何か言おうとしたけれど、何を言って良いのか分からず、もはや気力も無かった。

ふらりと立ち上がると、小鯛さんを見やりもせずに歩き始めた。ハイカウンターの呼び出しを待つソファから笑い声が聞こえた。銀行に置かれた絵本を読み聞かせしている若いお母さんと幼い女の子が目に入った。通り掛かりに背後から絵本をちらりと見ると、老馬ロシナンテに跨ったドン・キホーテが描かれていた。

<続く>


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