僕たちはいつの推しを好きになっても良い
「最近の推しを追えていない気がする…」
「昔の映像ばかり見ちゃって、売上に貢献できてない。ファン失格だな」
推し活をする友人から、そんな声を聞いた。
これについて、ちょっと書いてみたい。
まず前提として、
「推しがいるというのは素晴らしいことだ」
と思う。
例えば推しのことを考えるだけで、心が躍る。毎日楽しい。辛い時も、推しの笑顔を見れば頑張れる気がする。
そもそも、何の繋がりもなかった第三者を何の見返りもなく愛することができるのは、それ自体が素晴らしいことじゃないか。
…ここで「推し」という言葉を少し調べてみると、アイドル界隈で「モーニング娘。」ファンにより使われるようになったのが2000年初頭のこと。その後、AKB48の台頭によって一般層にも認知される。今では辞書にも載る等、完全に定着した印象だ。
これまで主に使われてきた「誰々のファン」と「推す」という言葉の違いは、前者があくまで状態を表しているのに対し、後者は自動詞的に「誰かに推薦したいほど好感を持つ」という積極性を含むことだという。
いずれにせよ、先に挙げたようにポジティブなエネルギーを生み出す「推し」という考え方は、近年の日本で生み出された一種の発明だと思う。
一方で、長く推し活をやっていると気持ちが曇る瞬間もある。
たとえば、
「推しの最前線を追えていない」こと。
愛が薄れたわけじゃない。
ただ学校を卒業し、仕事が始まった。
結婚して、子どもが生まれた。
ライフスタイルの変化は、ある日突然訪れる。あなたの生活に新しく飛び込んできた「やらなくちゃないけないもの」は、既存のキャパシティを圧迫し、他のものを押し除けて生活に組み込まれる。その除外される筆頭となるのがそう、趣味。当然だ。誰に頼まれるでもなく、ただ自分が好きでやっていることなのだから。いわゆる「推し活」もそこに含まれるだろう。
好きなはずなのに、まだ新譜を買えていない。
次のツアーにも参加できそうにない。
ふと気づくと、自分の中での推しのイメージが2年前で止まっている。今は新しくアルバムをリリースし、それに合わせてビジュアルも変わった。聴き込んでいた思い入れもあって、どうしても当時の曲・当時の推しの方が好きだと思えてしまう。
これってつまり、「もう推しじゃない」ってこと…?
いや、そんなことはない。
それが最新のものであれ過去のものであれ、あなたの「好き」という感情に嘘はない。
誰かを好きという気持ちに、貴賎はない。
推し活で一番意味がないのは、「周りと比較する」ことである。ファンたるもの、可能な限り全てのライブに参戦しないと。推しの出すものは全て収集しないと…
そうした考えは、やがて「より課金した者が愛が強い」という歪な価値観を生み出す。
思い出してほしい。あなたが一番初めに推しを好きになった時のことを。
そこには何の思惑も準備もなく、ただあなたはその人の放つ魅力に貫かれたはずだ。至極直感的に「この人、良い。好き」と思ったはずだ。
それがたとえ何年も前の推しに向けられた感情であっても、ファンの間で賛否の分かれる作品であっても、そんなの関係あるものか。あなたが「好き」と感じた。それ自体がこの上なく素晴らしいことである。
…ところで僕は、ビートルズが好きだ。でも僕が彼らを好きになったとき、ビートルズというバンドは既に解散していた。ジョンとジョージは既にこの世を去ってしまっていた。
でもそれが、何だというのだ。
推す相手が故人で、何か問題があるか?
彼らの生み出した素晴らしい音楽に思わず顔が綻ぶこと。4人の集まる映像を見てどうしようもなく心が躍ること。たとえそれが過去のものでも、今の僕がそう感じているのだ。この気持ちに嘘なんかない。
そしてそんなファンはきっと世界中に数えきれないほどいる。だからこそビートルズは、2025年の今も尚最強のバンドなのである。
「誰かを推す」ということ。
「好きになる」ということ。
それは過去現在の区分なく、僕たちの日常を彩る最強の感情である。
だから、心配しなくて良いんじゃないかな。
僕たちは、いつの推しを好きになっても良い。
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