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エレベーター 『シブヤ雑録集』



「エレベーターって不思議だよね。だって、ただ箱に乗っているだけで移動できるわけだから。しかも横じゃないんだよ、縦に移動できるんだ。これは画期的としか言いようがないよね。そもそも、昔の人間は縦に移動するという概念すらあやふやだったかもしれないよね。階段で二階に上がるくらいの移動はあったかもしれないけど、何もせずに自らの居る場所を上下に変更できるなんて。僕はね、エレベーターに乗っていると、まるで空を飛ぶ鳥ような気分になるよ。だってそうだろう? 実際のところ、僕らはエレベーターに乗っているだけであって、地上に足をつけているわけではないからね。だけど、普通の飛行機とは違って自由に身体を動かすことはできる。ねえ、聞いているかい? 僕はね、エレベーターが好きなんだよ。この浮いている感覚も、地上から離れていく感覚も、逆に降りるときは蝶がひらひらと舞い戻ってくるように、僕らも地上に戻るわけだ。たまらないね」

 不思議なのは、私の方だ。先ほどからずっとエレベーターについて語る男と私は一度も面識がない。そして彼の理論を借りるなら、私はマンションの六階に住んでいるから、いつだって空を飛んでいることになる。朝食を食べているときも、雑誌を読んでいるときも、シャワーを浴びているときも、常に浮いていることになる。
 言いたいことはわかる。エレベーターの独特な浮遊感は私も嫌いではない。ただ、エレベーターなんてただの移動手段だと思っていたから、ここまで感動できるのは不思議を超えて奇妙としか言いようがなかった。
「ねえ、あなたはどこに住んでいるの?」
 別に気になったわけでもないが、話を逸らすために尋ねた。
「僕かい? 僕は犬小屋だよ」
「い、犬小屋?」
 あの、犬小屋?
「そうそう。僕は主人様に飼われていてね、普段は犬小屋で暮らしているんだ」
「え、それって……」
 虐待では? と思うが、彼はもう立派な成人だ。しかし、何かしらの障害を持っていたりするなら、自立できない場合もある。となると、両親の虐待もあり得るのか。そしてそれに気づくことができない本人。
「ねえ、あなたお家で困っていることってない?」
「家で困っていることはないよ。エリさんは優しいし、いつも僕にご飯をくれるからね。散歩にも連れて行ってくれるし、身体も洗ってくれる。時々されるしつけは痛いけど、ちゃんとできたら褒めてくれるから嬉しいんだ。そうそう、今日もエリさんと渋谷まで買い物に来ていたんだよ。でも、途中ではぐれちゃって。それで探していたら、こんな目に遭っちゃったんだよ」
 エリさん、というのはお母さんのことだろうか。この男はお母さんを飼い主と認識している?  
 男の身体を見る限り、首輪をしている以外は異常なところはない。いや、しかし先ほど「しつけ」をされていると言っていたから、服の下に痣や切り傷が隠されている可能性はある。ただ、ここで見せてとは言えない。
「連絡先とか、教えてもらえたりする?」
「いや、僕は連絡先を持っていないんだよ。エリさんの番号も覚えていなくてね。そもそも、僕は携帯を持っていないからさ」
「あ、そうだったんだね。ごめん」
 じゃあ、住所は? 年齢は? そもそも名前は? 聞きたいことは山ほどある。ただ、この状況で聞くべきか、そもそも私が踏み込んでいい問題なのだろうか。だが、もしも本当に虐待をされているのだとしたら。あるいは洗脳されているのだとしたら。このまま見過ごしていいのだろうか。
 そのとき、エレベーターの扉が開いた。
「大丈夫ですか!?」 
 すかさず救急隊員らしき人物が私たちに駆け寄ってくる。だいたい、閉じ込められていたのは三十分くらいだろうか。
「私は大丈夫です」
「僕も大丈夫!」
「しかし、念のために病院へ……」
「あの、この男性の方、保護者を探しているようで。どこかで逸れてしまったみたいなんですけど……」
 しかし、私が救急隊員に告げた瞬間に。
「ハリー!」
 と、どこからか甲高い叫び声が聞こえた。そしてその声の主はすかさず私と一緒に閉じ込められていた男の元へ駆け寄って、抱きしめ合った。
「エリさん!」
「ハリー! 無事でよかった!」
「エリさん! 会いたかったよ!」
「私も会いたかった! 本当、このまま一生閉じ込められてしまったらって思うと、ハリー!」
「エリー! 心配させてごめんよ!」
 エリさんはハリーと同年代に見える。どうやら保護者ではなかったようだ。だとすると、二人の関係はいったい……。
「僕も、もう一生エリさんの調教を受けられないのかと思うと張り裂けそうだったよ」
「せっかくあなたのために犬小屋も作ったのに、神様はなんて仕打ちをするの! って本気で怒っちゃったわ」
「でも、僕らはまた会えたんだ。そして地上に戻ることができるんだよ。蝶がひらひらと舞い戻ってくるように」
 何を言っているんだ、こいつらは。まあいいや、二人が幸せなら、それでいい。奇怪な人たちだが、多分悪い人たちではないはずだから。
「お嬢さん、ありがとうね」
 ハリーが私に近づいてきて、ニコリと笑った。そして私にシワシワな一枚の折り畳まれた紙を渡して、エリに連れられて去っていった。
「バカップルだな、ありゃ」
 救急隊員も呆れ顔で、彼らの体調を気にするような気持ちはなさそうだった。私もそうだった。彼らは彼らでうまくやればいいと、他人事のように思っていた。
 彼からもらった紙を開くまでは。

『たすけて』

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