賀露神社所蔵『吉備大神遊碁御影』に描かれた場面 ー阿倍仲麻呂の幽霊姿を通してみるー
(鳥取県立博物館展覧会図録『はじまりの物語』【2008.10・完売】に寄稿。縦書現行なので数字表記が漢数字中心になっています)
一.紙本彩色『吉備大神遊碁御影』について
鳥取市の賀露神社に、『吉備大神遊碁御影』と題する、一幅の不思議な画幅が所蔵されている。この画幅についての記録は残っておらず、落款はあるがやや雑に押されているため判読が困難である。本稿執筆のため、筆者も短時間ながら閲覧の機会を得たが、現時点では絵師や製作年代等は明確にできない。
決して大きくはない画面に七名もの人物、それも服装などが大きく異なる人物像が描かれているため、不自然なほど窮屈な印象を受ける構図となっている。中央に描かれた碁盤によって、碁を打っている場面であることは明かであり、さらに、女性を含む四名は中国風の装い、残る三名は日本風の姿に描かれている。さらに、三名の日本人のうち一名は、下半身が消えていて髪が乱れ、顔色に生気がなく、要するに「幽霊」として描かれている。
画面に碁盤が描かれていることと、賀露神社に吉備真備の漂着伝説が伝わっていることも考えあわせれば、表題どおり、吉備真備の囲碁伝説に関わるものであることは疑いない。
真備が中国から碁を日本に伝えたという物語は、平安時代には既に成立していた。遣唐使に同行して養老元年(七一七)と天平勝宝二年(七五二)の二度渡唐し、優秀な政治家・学者であった吉備真備(六九五〜七七五)にまつわる伝説は、陰陽道や文選、野馬台詩にまつわるものなど多岐にわたる。これら、唐での様々な苦難の物語は、大江匡房(一〇四一〜一一一一年没)の談話を書き留めた『江談抄』の成立する一二世紀の初頭には既に一定の形が完成されており、ほぼ同時代に製作された『吉備大臣入唐絵巻』(ボストン美術館蔵)として絵画化もされている。この中にも既に真備が唐で碁をうつ説話は含まれており、比較的古い時期に成立したものであることがわかる。大まかにいえば「吉備真備を殺そうとして唐人が様々な難題をもちかける。その中に、当時日本に伝わっていなかった碁での勝負があった。真備は、唐人に殺された阿倍仲麻呂(六九八〜七七〇)の死霊(鬼)の助けもあって、他の難題同様、碁の勝負にも勝利した」という筋立ての説話である。なお、実際には真備と仲麻呂は、留学生としては同期の遣唐使に随行しており、真備の帰国後も仲麻呂は唐にとどまったが、真備の二度目の入唐の時にはまだ存命で、真備は仲麻呂と再会している。
賀露神社所蔵の画幅も、基本的には同系統の説話を下敷きに描かれたものであると思われるが、『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』詞書の説話と、『吉備大神遊碁御影』の細部の描写には、異なる点も多い。
たとえば、『吉備大神遊碁御影』は、真備と唐人の勝負の場面を描いていると思われるが、『吉備大臣入唐絵巻』の同じ場面の画とは、登場人物が大きく異なっている。『吉備大臣入唐絵巻』には、仲麻呂の幽霊や女性の姿はないし、詞書やその元になった『江談抄』でも、この場面にこれらの人物は登場していないのである。そもそも『吉備大臣入唐絵巻』には、女性が一人も描かれていない。
また、『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』では、仲麻呂の幽霊は、唐人のたくらみを真備に伝えて碁のルールを教えるが、勝負そのものには手を貸していないことになっている。これら中世の説話では、死霊である仲麻呂よりも真備の力が強大に表現されている面があり、他の場面でも、仲麻呂は道具を揃えたり情報をもたらして補助したりはするが、直接真備を助けている描写は少ないのである。『江談抄』・『吉備大臣入唐絵巻』では、唐人に勝ちあぐねた真備は、仲麻呂に助けて貰うのではなく、相手方の碁石を飲み込むという、あまり公正とはいえない方法で勝ち、唐人たちは碁石の数が足りないのを怪しんで真備に下剤を飲ませてまで確かめようとする。しかし、真備は術を使って碁石を排泄せず、勝利が認められたという、ユーモラスな筋立てになっている。
阿倍仲麻呂の幽霊をはじめ、『江談抄』等では触れられていない登場人物が何人も描かれている『吉備大神遊碁御影』はしかし、少し異なった物語を背景にしているように思われる。
ここでは、仲麻呂の幽霊をはじめとする、これらの人物像を手がかりに、『吉備大神遊碁御影』の背景にある物語について、探ってみたい。
二、幽霊姿の阿倍仲麻呂
まず、もっとも印象的な「仲麻呂の幽霊」を手がかりに、『吉備大神遊碁御影』が、およそいつ頃描かれたものなのかを検討してみる。年代については画風や表装からも検討することはできるが、「幽霊の姿」には、時代ごとの様式があり、比較的わかりやすいからである。
『吉備大神遊碁御影』の仲麻呂の幽霊は、三角頭巾や白い経帷子こそ着ていないものの、下半身はぼんやりと消えて、いかにも「幽霊」らしい姿をしている。ちなみに、『吉備大臣入唐絵巻』の仲麻呂は、赤鬼もしくは赤い顔の異相の人物として描かれており、詞書を見なければそれとは判断しづらい。
この画の仲麻呂のような幽霊の表現が常識化するのは、近世後期、一九世紀頃のことであり、比較的新しい様式なのである。足のない幽霊は、一説には円山応挙の創始とも言われるが、一七世紀末頃から板本の挿絵等に散見する。しかし、近世前期には「逆さまで現れる」「蛇体や鬼の姿になる」というイメージの方が強く、「足がない」という条件はさほど一般化されていなかった。
天災としてイメージされる古代の怨霊はさておき、中世以降の説話などに現れる「幽霊」には、大きく分けて「霊魂の姿が仮にあらわれたもの」と、「生きている屍体」の二系統が存在している。前者は、夢幻能などに現れる幻想的存在であり、後者は近世前期怪異小説などにみられる棺桶から這い出してくる屍体や焼墓に関する説話などに典型的にみることができる。
この二つの系統の表現には差異があり、前者は生前の姿、または死んだときの姿で現れるのに対して、後者は葬られた時の格好で現れる(屍体そのものなので当然だが)。また、前者は物体としての制約はほとんど受けないかわり、直接物理的な影響を与える能力に乏しいが、後者は、時には子供を産んだり、人の首を引きちぎるなど危害を加えるなど、直接的に影響を与えることができる。
『今昔物語集』の「人妻死後会旧夫語」のように、霊の本体が屍体であったという説話は既に中世にも散見するため、完全に二分できるわけではないが、『東海道四谷怪談』の於岩など、近世後期に完成された幽霊の表現形式は、この二つの系統をうまく混ぜ合わせたものであるといえるだろう。実体がないのに決まって死装束で現れ、屍体ではなく魂魄であることを示すために下半身を消した表現となっているのはそのためである。
以上のようなことを念頭に、再度この仲麻呂の霊の姿をみてみると、衣冠束帯という生前の衣服を着ていること、角がはえていること等、若干の偏差はあるが、様式として一見して幽霊と判別できる書き方である。基本的には既に「幽霊の姿」が完成された時期のものであり、一九世紀以降のものであると考えられる。
三、碁打ち説話の変貌
仲麻呂の幽霊の姿を手がかりに、『吉備大神遊碁御影』を一九世紀に描かれたものであるとするならば、依拠している物語の内容そのものが、この頃には大きく変化していたと考えられる。
では、近世における真備の囲碁勝負の説話はどのようなものだったのだろうか。
この問題を考える上で欠かせないのは、浅井了意『安倍晴明物語』(寛文二年【一六六二】刊)である。浅井了意(一六一二〜一六九一)は、近世文学史を考える上で欠かすことのできない仮名草子作者で、近世版本説話集の規範の一つともなった『御伽婢子』等の作者である。『安倍晴明物語』は、伝説的な陰陽師・安倍晴明に関する説話を集めたものである。先述したように、真備は晴明につながる日本の陰陽道の開祖とされている一面があり、了意は清明物語の前史として、真備の囲碁勝負をとりあげている(「吉備大臣入唐付殿上にて碁をうつ事」)。ところが、『安倍晴明物語』では、話の筋立てが『吉備大臣入唐絵巻』と少々異なっている。『安倍晴明物語』では、仲麻呂が真備に碁を教えただけでなく、夜のうちに対戦相手である唐人「憲当」宅に二人で忍び込んで、「憲当」夫婦が練習しているところを盗み見、真備が勝つことになっているのである。この話には勝負の場面はあまり描かれておらず、挿絵も憲当夫妻の練習を真備と仲麻呂が盗み見ている場面になっている(写真2)。真備は衣冠束帯で中央に、仲麻呂は童の姿で右側に描かれているが、唐人夫妻にはその姿は見えていないようである。仲麻呂の霊が勝負に直接干渉する場面はまだないので、『江談抄』などと完全に異なる話にはなっていないが、挿絵では碁盤と同じ画面に『吉備大臣入唐絵巻』に描かれていなかった女性と仲麻呂の霊が姿をあらわしており、碁石を真備が飲み込んでしまう場面が省略されている。
仲麻呂が真備に直接助力したとする記述は、ずっと時代を下った高井蘭山(一七六二〜一八三八)『絵本三国妖婦伝』(享和三年〜文化二年刊)等の読本に見ることができるが、中でも具体的に描いたものとして、好花堂野亭(一七八八〜一八四六)の『扶桑皇統記図会』(嘉永二年【一八四九】刊)をあげることができる(「吉備大臣与玄東囲碁 隆昌女隠黒石吉備公仁恕事」)。これは、明治以降に『吉備大臣入唐記』などとして真備関係のところだけを抜き出した活字本も作られている、かなりポピュラーな上方読本である。『扶桑皇統記図会』では、勝負の場面はかなり詳細に描かれ、当時上方随一と言われた浮世絵師・柳斎重春(一八〇三〜一八五三)の挿絵が付けられている(写真3)。これは大変賑やかな挿絵で、玄宗皇帝・楊貴妃をはじめ、対戦相手(碁名人・玄東)とその妻隆昌、はては安禄山や楊国忠までが同じ画面に収まっており、仲麻呂も足のない幽霊として描かれている。野亭はそれまでの説話を換骨奪胎して再構成しているため、囲碁勝負の場面も大きく変わっている。仲麻呂の幽霊は、勝負の場で真備に次の手を教えており、対戦相手である玄東は追い詰められる。隆昌は夫のために碁石を飲み込むが、真備はこれを見逃してやり、玄東は結局真備に敗北するという筋立てになっている。碁石を飲み込む役割が、真備ではなく唐人側に変更されているのである。了意はこの場面を割愛したわけだが、野亭は主客を入れ替えて、全く反対にしてしまっている。これらのことからは、直接にせよ間接にせよ、野亭が古来の「碁石を飲み込む話」と「碁打ち名人夫妻」の話を周知していたことがわかる。
明治版『吉備大臣入唐記』(明治七年【一八七四】刊)の柳葉亭繁彦の序文には「彼仲摩呂が巡霊(ゆうれい)の凄みを見せた思ひつき目新しいと版元の手柄を褒て」とあり、『扶桑皇統記図会』描写が当時かなりの評判となって、以後「仲麻呂の幽霊」のイメージとして一般化していったようである。
四、『吉備大神遊碁御影』に描かれた物語
以上のことから、『吉備大神遊碁御影』の背景にある物語が、『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』のものよりは、『扶桑皇統記図会』に近いものであることは、ほぼ明らかである。双方の構成要素はほぼ同じであり、『扶桑皇統記図会』そのものではないとしても、同系統の物語を下敷きにしていることは疑いない。『吉備大神遊碁御影』を、『扶桑皇統記図会』に即して読み解くならば、この場面は真備と唐の碁の名人玄東の勝負の場面であり、左の椅子の人物は玄宗皇帝、女性は玄東の妻・隆昌、幽霊は阿部仲麻呂、中央の老人は勝負を見守る揚国忠(または安禄山)ということになるだろう。
上述したように、『扶桑皇統記図会』では、『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』にあった真備が碁石を飲み込むという要素が唐側の隆昌に移し替えられ、仲麻呂の幽霊は姿形だけでなく碁の勝負の行方を握る存在となっている。同じ物語を基礎とするのであれば、『吉備大神遊碁御影』は、理想化された吉備真備と、完成された幽霊姿の阿倍仲麻呂を描いたものといえそうである。
ところで、上記のように考えた場合、『吉備大神遊碁御影』には、一人だけ、正体不明の人物が残されてしまう。真備の脇に従う和装の童は、『江談抄』等中世の資料だけでなく、『扶桑皇統記図会』の画にも本文にも描かれていないのである。
今回触れた資料の中で、あえてこれに近い姿の人物を探すとすれば、『安倍晴明物語』の挿絵に童姿で描かれた、阿倍仲麻呂の霊であろう。そうだとすれば、この絵には、阿倍仲麻呂の霊が二人描かれていることになる。『吉備大神遊碁御影』の作者は、製作に際して、『安倍晴明物語』、またはそれに類するものも参考にしたのかもしれない。
いずれにせよ、『吉備大神遊碁御影』は、上方読本によって内容的に補強された真備説話が、神社での信仰を支える上で一定の役割を果たしていたことを示す、興味深い資料であるといえる。
【主な参考文献】
小松茂美編『日本絵巻物大成三 吉備大臣入唐絵巻』(中央公論社、一九七七)
辻惟雄(監修)『全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション幽霊名画集』(ぺりかん社、一九九五)
黒田日出男『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学館、二〇〇五)
服部幸雄「さかさまの幽霊」(『文学』五五巻四号、一九八七)
横山邦治「「図会もの」補説 山田意斎の読本をめぐって」(『国文学攷』二九号、 一九六二)
佐々木孝文「『性差』からみる近世社会の一局面 ―前期怪異小説の「うわなりうち幽霊説話」を素材として―」(『文化史学』 五一号、一九九五)