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父の人生を変えた『一日』その54 ~商売の師匠~

その54 ~商売の師匠~
 萬(まん)玉(ぎょく)本部長は言った。
「ライオン米材で何とか3億儲けてくれ。」
この当時、南洋材の相場は大暴落していた。大損必至の相場観であった。非常に本部長は困り果てていた。私は大きな声で
「了解」と言った。
隣で沢田総括本部長が笑っていた。相場商品を扱っていると色々と相場によって損益が大幅に変化して対応が難しくなっていた。「ずる賢いライオン」は何年も商売している関係でその相場観に対応する術すべを熟知していた。すなわち商売が儲かるときはお客様に材木安く売って「貸し」を作っておくのである。その貸しの金額は全国で5億円にもなっておりどうにでも成ると思って元気よく答えた。その時の本部長の笑顔が忘れられない。まさに「援軍来たり」の顔つきでもあった。私はこの本部長に粉飾決算すれすれの商売を教えてもらった。商売の裏の部分を教えて頂いた。学ぶことが多かった。恐ろしいほど商売に対する執念を感じる人でもあった。
 「本部長、決算で3億5千万利益でますがそれでよろしいですか?」と聞いた。
「ありがとう、何とか4億円にはならないか?」再度問いかけてきた。
「分かりました4億円利益出します」と答えた。
南洋材が想像以上に相場が下落していて何ともならない状況であった。上の人は上の人で苦労が多いのだろうと思った。御苦労であったと思った。沢田、萬玉両人は私が㈱トーメンを円満退社する時に木材部上げて送別会をしていただいた。商売のなんたるかを教えられた人生の師であった。

~倅の解釈~
 親父はあまりこの二人の話を私にしたことが無かった。子どもである私にすらシェアしたくないほど大事な師匠だったからであると思う。商売のスキームを隅から隅まで熟知するだけの覚悟をもって仕事と向き合っていた親父。財務は特にすさまじかった。金勘定だけではだめ。いかに増やせるかの戦略と戦術で武装するかに非常にこだわりが会った親父。全て、この二人に教わったのであろう。
 私もサラリーマン時代、同期入社の55名とは別のレールを走らされていた。さすがに大学を卒業させて頂いていたので、そのことは薄々気付いていた。ただ、だれがその指示を出しているのかは、2年目までわからなかった。
 2年目の半期あたりで、呼び出しがあった。
 「水澤君、副社長が呼んでいる。副社長室へ行くように」
 フロアー全体が静まった。何か悪いことあいつしたぞ的な空気。務めていた会社の副社長はインド人の血が流れているクオーター。親父からはこの方からしっかりと学べとよく言われた。副社長室に堂々と向かった。何か必ず起こると。
 「副社長、失礼します」
 「おー、水澤君。元気か?仕事は楽しいか?」
 「日々忙しくさせて頂いております。」
 「そうか。では、会社にも慣れてきたと思うので、新たなプロジェクトに携わってくれ」
 「はい、わかりました」
 プロジェクトの内容も聞かず、快諾させて頂いた。理由は単純。これがチャンスと感じたからである。結果、まずは、100周年の展示会で出展する新たな装置の英語通訳担当と装置の説明である。英語には自信があったので、自分の仕事が終わった後、猛勉強をして、展示会3日間を英語漬けで猛進した。楽しかった。そして、その展示会が終わった翌週の月曜日また呼ばれた。
 「水澤君、また別のプロジェクトに加わってくれ」
 「はい。光栄です。頑張ります」
 私が所属する首都圏を中心とした営業部隊の受発注システムの開発プロジェクトだった。でもこのプロジェクトだけは相当苦戦した。何度も、会社の机の上で寝た。でも必死に食らいついた。役員会議でシステムの説明をする非常に光栄なチャンスも頂いた。
 こうやって、優しく、厳しく、副社長からご指導を頂いた。「残業」という二文字は頭もよぎらなかった。毎日が楽しくてしょうがなかった。5年の奉公を終えて、退職のご挨拶に副社長室を訪れた。初めてその時、お昼をごちそうになった。一度たりとも、社長の倅だからと言って、私に甘くはしなかった。最後の日まで。私はこの副社長が商売の師匠である。本当にありがとうございました。

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