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恋人よ逃げよう 世界は壊れたおもちゃだから
逃げなくてはならなくなりました。
私だけでなく、あなたまで、追われる立場に、――人ではなくなってしまったのだから。
「この街を出て、何処へ行くのですか?」
「この街ではない、この世界の外へ行くんだ。」
「外へ?」
「そうだ。俺たちは、この世界にいたとして、もはや、ただ息を殺して横たわっているほかないだろう。」
「だから、さあ逃げよう、―――恋人よ、世界は壊れたおもちゃだから。」
◇
きっともう戻れない、けれども、あなたに導かれるまま、廃れた灯りの間を縫うように歩く。
「分かってはいたが、おかしなものだ。脈がないのに、まるで俺の心臓は動いているようだ。自分の心音がしないと言うのは、予測していた幾倍も、不安になる。」
「あなたなら、直ぐに慣れます。」
二人で過ごしたこの街、きっと最後だというのに、あなたは思い浸る様子も見せずにまっすぐ森へ向かうのです。
あなたにも、私たちを追ってくる血の匂いが、強く感じられるのでしょうか。
◇
森へ入った途端、さっきまで低く唸っていた私たちを追う声は不思議にピッタリやみ、星もない新月の今夜は、まるで追われる二人を隠すよう。
「ねぇ、さっき聞けませんでした。この世界を出て、どこへ?」
「お前が夢見た場所へ行こう、―――パノラマ島だ。」
「あなたと、パノラマ島へ行けるの?」
「そうだ、帰りたいのだろう。きっと私の帰るところなのだと、よく、聞かされていたからな。」
パノラマ島という言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく引っかかれたような感触がしました。
それは、私が望んでいたはずの場所だったことは違いないはずなのに。
ずっと夢見ていた場所。
どんなに追い詰められても、心のどこかで救いのように思い描いていたパノラマ島。
「ほんとうに、あなたはそこへ、私と逃げてくれるのですか。」
「ああ、もはや人ではない俺たちにとっては、幻の島こそ、現実にほかならない。」
私がよく口にしていた、遥か遠い幻のエルドラド、―――パノラマ島。
私たちが向かう先は、確かにパノラマ島しかないのでしょう。
夢に見た楽園、死ぬまでに1度は訪れたい、そう願ったパノラマ島は、この世界から後ろ指を指されてしまった、人ではない私たちにとって、とびっきりの逃げ場所に違いないのでしょう。
そう、今となってはもう、夢に見た島は、逃げ場所なのです。
「こんな形で、理想郷に行くことになるのを、悔やんでいるな。」
「……もし、あなたと逃げ込んだパノラマ島が、楽園ではなかったら?」
「しかし、お前が望んだ場所だろう?」
私は小さく頷くしかない。
だって、ついさっき、もう戻れないと分かっていながら、あなたに着いてきたのですから。
「あなたと居られなくなるのなら、それが一番、何よりも、苦しいから。」
言葉が水に沈むように静かに響く。
あなたは答えない代わりに、私の両手をとって、強く握り直します。
つい昨日までは血が通って、暖かかったあなたの手も、今夜はもう、私とお揃いで、ひどく冷たいのですね。
「努々、この手を離しはしない。」
◇
「パノラマ島へ行くなら、どこかに舟が?」
「そうだ、サーカス団から、小さなものをくすねておいた。」
森を抜けた先の岸には、あなたが言っていた通り小さな舟が、ひっそりとつけられて、黒い波に揺られながら、それは静かに私たちを迎えていました。
「行こう。」
先に舟に乗ったあなたから差し出された手に触れると、やっぱり、恐ろしく感じるほどに、この世界の終焉を握るように、とても冷たいのです。
「今日の新月は、きっと私たちのためです。私たちを、隠してくれているはずです。」
「そうだといいな。」
あなたの手を取って舟に乗り込みます。
この小さな舟で、あなたと私は、この世界から逃げるのですね。
「ステキです。」
私は微笑みました。
けれど、私は震えていて、これがいつもの強がりだって、きっとあなたにも伝わってしまっているのでしょう。
あなたも同じように微笑みます。
何度も見たはずのあなたの微笑んだ顔なのに、人ではなくなった今、昨日までとは違う。
夜風に乗る私たちの影は、小さく震えていました。
◇
舟がゆっくりと岸を離れます。
サーカス団の舟には、小人が使っているであろう小さなランプが置いてあり、あなたはそれに火を灯しました。
私たちの行方を照らして、蒼い水面を焦がし、踊るように揺らめく二人の影をうつす。
「ララララ……ララ……ララ……」
私の口から零れるメロディ。
そうしないと私は崩れてしまいそうです。
あなた以外、誰も詩など聞いてはいない、新月の今夜、パノラマの光を目指して。
あなたは私を見つめて、それに重ねて呟きました。
「パノラマ……」
その声は潮騒に紛れ、どこかここではない、プリズムの陰りへと溶けていくようでした。
パノラマ島に向かう私たちの舟は、岸から、―――あの世界から、遠く離れていきます。
人ではなくなったあなたと、人ではない私の、この逃避行は終わりなく、どこまでも続くのでしょう。
もしかしたら、パノラマ島は、楽園ではないかもしれないけれど。
それでも。
私だって、努々、この手を離すことは、ないのです。