情報過多で「自分」を見失いかけたあなたへ。哲学書にツッコミながら見つけた心の応急処置
「私って誰?」――情報が洪水のように押し寄せる時代、ふとそんな疑問が頭をよぎることはありませんか?
SNSやニュースを眺めているうちに、いつの間にかそれが自分の考えなのか他人の考えなのか分からなくなる…。そんな混乱に陥ったとき、「〈私〉を取り戻す哲学」なんてタイトルの本に、ちょっと魅かれてしまうのも無理はありません。
とはいえ、本書を読んでみると「ほんとにそうなの?」とツッコミたくなってしまう部分が多少あるのも事実。でもまさにそこが、哲学の面白さでもあり、本書の読後感をより深めるポイントなのかもしれません。今回は、その“ツッコミどころ”を含めて、対話から浮かび上がった「〈私〉を取り戻す」ヒントを整理してみました。
※この記事は、日米のIT業界で働く友人同士で対話したポッドキャストの内容を元に文章化しています。実際の音声へのリンクは最後に掲載しておきます。
氾濫する情報に押し流される〈私〉
動物化しちゃってない?
本書が最初に警鐘を鳴らすのは、“動物化” という現象。SNSや情報の快楽性にどっぷり浸かりすぎると、いつしか自分の欲望だけを満たすことが目的になり、他者との交流や広い視野を失ってしまう――そんな懸念を示しています。
「自分が楽しいなら、それでいいじゃん」
「推しキャラさえいれば幸せ」
もちろん「好きなものに集中して何が悪いの?」と思う人も多いはず。著者の言う“動物化”は、そういった自己充足を否定しているわけではありません。でも、それだけに囚われていると、外の世界との“摩擦”を避けてしまう危険がある、と。
やたら“良いこと”に飛びつく?
もう一つの流行が、「善への意志」。世の中に“いいこと”をしたい、社会課題を解決したい――SDGsやボランティアなど、“いい人でいたい”ムーブメントはSNSでも盛んです。
でもそれは本当に“あなた自身”の納得?
どこかで「他者から与えられた『いいこと』」に乗っかってるだけじゃない?
著者は、動物化も善への意志も“情報に流されている私” である危うさを指摘します。自分が本当にどう感じているのか、〈私〉の軸が曖昧になっていないか?――まさに今の時代に突きつけられる問題です。
フッサールと「判断留保(エポケー)」
なぜ哲学が出てくる?
著者が解決策として挙げるのは、近代以降の哲学、とりわけフッサールの現象学。ここでは「真理が何か」を決める前に、「私がどのようにそれを確信しているか」という“主観のあり方” が注目されます。
「世界は丸いか?フラットか?」より、“私はそれをどう感じ、どう信じているのか?”
その主観の部分にこそ、〈私〉を取り戻すカギがある、というわけです。
判断留保(エポケー)って何?
フッサールの用語であるエポケーとは、「判断を一旦保留すること」。
A説もB説もどっちが正しいか分からない…
すぐに白黒つけたいけど、まずは結論を出さずに置いてみよう
すると、「急いでA説を支持して、その後B説に出会ったら混乱」なんてことを回避できる。情報が溢れている今こそ、無理に結論を急がず、エポケーしてみる姿勢が意外と役立つのでは、というのが本書の主張です。
対話の意義:主観的確信→共同的確信→普遍的確信
3つの確信レベル
主観的確信
自分の中にある確固たる思い・経験
共同的確信
他者と対話で突き合わせて、「あ、ここは重なるね」と共有できた部分
普遍的確信
多くの人との議論や検証を重ね、理想的には社会全体で「これは正しい」と合意できる状態(現実には難しいが、理想像として)
相対主義だけで済まさない
「みんな違ってみんないい」と言って終わるのは簡単。でも、本書が危惧するのは、それはただの“対話の放棄”になりやすい点。
同じような意見の者同士だけが集まる
他のコミュニティとは断絶し合い、真実の追究なんてどうでもいい世界
最終的には限られた資源を奪い合うために、暴力で解決する世界へ…?
SNS時代はこうした“エコーチェンバー現象”が顕著。だからこそ、「対話」を通して少しでも共同的確信を広げようと呼びかけているのが印象的です。
「本当に?」とツッコミたくなる箇所も…
価値観の押しつけ感
本書にはところどころで「動物的エゴイズムは時代遅れ」とか「人間はやはり高度な知性を目指すべき」みたいな断定が現れます。
いや、それって著者の価値観じゃないの?
もうちょっと根拠を示してほしい…
哲学書を名乗るならば、論証不足に感じる人もいるはず。そこは「いや、ほんと?」とツッコみながら読み進めるのがオススメかもしれません。
絶対的共通認識なんて、今の時代に得られるの?
本書では理想として「普遍的な確信」を示唆していますが、ネット上には地球平面説や陰謀論など、“ごく一部だけど強く信じる人たち”が増えています。果たして彼らと対話が成り立つのか、ちょっと現実感が薄いのも確か。
「そこはどうするの?」
「普遍的に他者と合意するなんて本当に可能?」
こうした疑問も湧いてくるのは自然でしょう。
それでも「〈私〉を取り戻す」ために
判断留保(エポケー)と対話
ツッコミどころを踏まえても、「自分の確信を先に固めず、エポケーする」という発想は魅力的。SNSでテンション高い言説に流されがちな今だからこそ、一呼吸おいて「ん? どうなんだろう」と留保するだけでも、情報に飲まれない私が少し育つかもしれません。
そして単に曖昧にするのではなく、「実は私はこう思ってるけど、あなたはどう?」と対話する。そこで生まれる“重なる部分”が〈私〉を確かに感じさせる――なかなか新鮮な視点です。
弱さや脆さがあなたを形作る
本書が後半で強調しているのは、「できないこと」「脆さ」を抱えているからこそ〈私〉が生まれる、という点。なんでもスイスイうまくいくのなら、自分と世界の境界はスムーズすぎて逆に感じられない。
苦手がある、限界がある
それを自覚すると、世界との“摩擦”が生まれ、逆に「自分」を実感する
この視点は、「私とは何か?」を答えのないまま探し続ける道標になるかもしれません。
まとめ:ツッコミ込みで“対話のタネ”にしよう
『〈私〉を取り戻す哲学』には、「そこ飛躍しすぎでは?」という箇所もある一方、「情報洪水の中でどう生きるか」という目の前にあるテーマを真正面から扱っているのが興味深いところ。
対話の大切さ
エポケーで判断を保留し、焦って結論づけない
違和感や疑問があれば「それって本当?」と率直に問う
互いに確信を持ち寄り、重なる部分があれば共同的確信として共有する
弱さ・脆さを受け入れる
何でも思い通りにコントロールできるなら〈私〉はいらない
不完全だからこそ、自分が何にぶつかり、どこに限界を感じるかが浮き彫りになる
そこにこそ、〈私〉が見えてくる
結局のところ、「〈私〉って何?」という問いは一発で答えが出るようなものじゃありません。だからこそ、その曖昧さを抱えたまま、他者との対話を続けることが大切――本書はそんなメッセージを投げかけてくれます。
もちろん、「いや、そもそも動物化って悪いの?」といった反発も含め、ツッコミながら読むのが正解。私たちが自分の頭で考え、「これちょっと違うんじゃ?」と疑問を持つ瞬間こそ、“情報に流されない〈私〉”を取り戻す第一歩になるのかもしれません。
ポイントまとめ
氾濫する情報に流される私
快楽だけを満たす“動物化”、安易に“善への意志”に飛びつく昨今の傾向
エポケー(判断留保)
デカルト・フッサールの哲学から学ぶ、「急いで白黒つけず一旦保留」する姿勢
対話を通じた確信の共有
相対主義で終わると対立しやすい
少しでも“共同的確信”を育むために、意見をすり合わせる
弱さ・脆さが“〈私〉”を照らす
なんでも思いどおりにいくのなら自己は消滅する
不完全さがあるから自分を自覚できる
ツッコミどころがあるからこそ、対話のタネ
「動物化を時代遅れと断定するのはどうなの?」など、疑問はむしろ歓迎
そうした矛盾こそ、次の思考やコミュニケーションにつながる
情報に溺れがちな時代に、あえて「判断留保」を心がけ、弱さや脆さを認めながら他者と対話する――。 それが“流されない私”を取り戻すための、一つのアプローチかもしれません。
絶対的な答えがないからこそ、あなた自身が「本当に?」と首をかしげながら、自分なりの確信を形作っていく。そのプロセスこそが“哲学的営み”の真骨頂だ――そんな学びを本書から得られるのではないでしょうか。
「〈私〉って何?」という問いは、誰もが一度は悩むもの。もし今、情報やSNSに飲み込まれて「自分がわからない…」と思うなら、ちょっとエポケーしてみて、誰かと対話をしてみるのも悪くないかもしれません。そこに小さな“〈私〉の回復”が宿っているかもしれませんよ。
こちらの記事の、元となった対話音声はこちら↓
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