敢えて新しい学びの場を開く意義
新しい事を学び、能力を獲得するということは大変だし疲れる、できる事なら無駄な事など学びたくはないとそんな風に思う事も多い。そんな事を他人に進めるべきなのか、敢えて学び場を開く意義などないのではないかそんなことも考えたりする。学ぶ事はいいことだとざっくりした考えのままでは、何の進歩もなさそうなので敢えて新しい学びの場を開いている意義を改めて考えてみる。
個人での学びの機会
何かを学びとる場や機会というのは人それぞれ異なる。身近にある物事と自分自身を結び付けた様々な経験から得られる成功や失敗というのが本質的で根源的な学びのように思います。例えば、よくわからず声を上げて、手足を動かすことを覚えて、二本足で立ってみて、あちこち遊びまわるようになって、意味も分からないけれど、できる行動を全部やってみたらどういう行動をすればどれが心地よく自分の望む結果になりそうか、すこしずつ自然と最低限必要であろう身体性を獲得していく。そして能力を獲得するの喜びも同時に得る。そういう視点からすると誰かから敢えて教えを乞うというのは実はちょっと遠回りかもしれない。
しかしながらなんとなくだけで自分の感覚を元に何かを学びとって自身の能力を拡張していく(行動→学ぶ)のはそうそうに限界が訪れる。だからこそ事象を具体的に体系的にまとめている話を聞いたり、自分では思いつかなそうな発想と出会うために学ぶという行動をとるのだろう。学んでから行動することについてよい成功体験を持っていれば敢えて学ぶという事(学ぶ→行動)を大事にしようという思考が強化されるかもしれない。あとは行動に対してのリスク感やコスト感を加味しながらで、学びが先か行動が先かという選択を選びとる。ただし本来的には「行動それ自体」または「行動の結果」のところへ個々の行為の原動力があるため、行動する方がそもそも優位なのが生物的感覚に近いように思う。こうして考えて言葉にしているのも、考えて言語化したいという行動が先で、その後足りないところやいいアイディアと出会ったら補完していく。そのためには敢えて学ぶという事行為も必要になるだろうという発想が根幹にある。
本来的には行動してたら勝手に学んでたという事が学びの根本的なところではないかという発想を見逃さないようにしたい。
社会としての学びの機会
保育園や幼稚園からはじまり、小学校中学校高校、専門学校や大学、教育の場として学校は広く当たり前に存在していて半ば強制的に放り込まれる。保育園や幼稚園はともかくその後については改めて考えてみても個々人が自分のためにあえて学ぶというような発想からは程遠く、「社会のために役立つ人間になるための教育機関」という発想かもしれない。
ただし半ば強制的に放りこまれた場所において、多くの無駄なように思える様々な物事を学び取ることになる。意外と自分からしたら”無駄なように思える様々な物事”というのも意外と大事で自分の価値観以外の価値観がある事を理解するという頃は社会として教育の場を持つ大きな意味だろう。無駄なように思えることに意味を感じるのは同じ年代のクラスメイトとの意見交換や反応を共有することによって得られるかもしれない。
一方であまりにも膨大で無駄にも思える知識の流し込みは、「あなた自身の望みを実現するために敢えて学ぶという行為はとても有効かもしれない」「そもそも学ぶという行為自体もとても楽しいことかもしれない」というような発想を忘れさせるに十分だろう。その結果「あまり深いことを考えない社会にとって役立ちそうな人材」を育成することになる。これはそもそも学校教育というものが成立した当初においては目論見通りの機能だっただろうが、現代においては足かせになっている部分もあるのではないだろうか。
その後企業に勤めていれば社員教育やその社内で学びとることもたくさんあるだろう。あとは家庭やその家族関係やコミュニティのつながりから、その他一般には社会教育や生涯教育という形もある。しかしながら幼いころから強烈に印象に残る学校という原体験はどんな学びの場においても色濃く残り、学習の場とはそういうものという固定概念になっているようにも感じる。
敢えて新しい学びの場を作る意義
行動から学ぶという事が本質的な学びであり、行動後わからないことは即ネットで調べるなんてことが気軽になった今、敢えて学ぶ場など必要ないのではないかそう思いたくもなるのですが、社会としての学びの機会を考えたときやはりそうでもないだろうと言葉を紡いでいます。
まずは前述の2点「あなた自身の望みを実現するために敢えて学ぶという行為はとても有効かもしれない」「そもそも学ぶという行為自体もとても楽しいことかもしれない」という発想の元に個人個人にとって本当に価値のあると感じられる場であれば敢えて新しい学習の場を作ることには意義がある。また膨大な情報や選択肢のあふれかえる中、自身の望みは何か立ち返って学ぶという事はとても重要ではないだろうか。
そしてもう1つは「より本質的な事を色んな角度で学ぶ場」が必要という事です。現代において研ぎ澄まされた知識や発想を元に世の中をどんどん革新していく人がいて、その革新の共に成功とそれに応じたお金や権力を手にします。ただし多くの人はその研ぎ澄まされた知識や発想の大元に触れる機会はあまりありません。その辺りの知識や因果関係がわからない方がお互い都合がいいから、敢えて知らされることはない。こういう”敢えて知らされることのない”ことを含めて、今自分たちの足元はどのようにして作られていてどのように更新され続けているのかという事を学ぶという事が実は重要に思います。
困ったことや不都合な時は、想定外や自己責任という言葉で済ませればいいやという発想のまま革新ばかりがもてはやされる現状は現代における大きな問題でしょう。それは誰かの夢や希望を最短で実現するために生じた歪みかもしれないですが、その歪みがどのようなリスクをはらむかもちゃんと理解しなくてはいけないように思います。
そして特に地球環境の様々な問題などは最たる例ですが、1対1の新しい因果関係を加えるだけで問題の解決になどならないことが多いというわかっていながらも、革新的な一つのアイディアにすがる(失敗したら想定外)、または個々の行動にゆだねる(進まなければ自己責任)というのを繰り返しているように感じられます。いい加減そういうのを止めたいというのは心の底から願っています。
「社会の複雑性をちゃんと理解し向き合う事」、「その上で本当にやらなければならないこと実行に移す事」を学習の場に取り入れていくのがよいと考えます。しかし本当にそういった事を進めようとした時には社会で当たり前で当然とされてきたことを否定したり、今の権力者や功労者であろう人にも変化を強いたりする必要も出てくるでしょう。その時にまっこうから目先に見える正しさへ向かえば平行線または煙に巻かれてより後退してしまうという事もあるように思います。そのあたりもシンプルじゃないことを理解したうえで「学校で考え抜かれた物事が社会実装されるしくみ」というのはもっとよく練っていきたいですね。
また「社会にとって必要とされる人に自分がなっているか」という事の確認の場、自分の行動に対して他人の反応を伺うという機会創出もなんだかんだで必要かもしれません。そもそも、誰しもが生まれて声上げたときからやってきたことだろうけれど、意外とそういうことも忘れがちではあります。
敢えて学ぶ意義、敢えて学習の場を開く意義、よくわからない事を学ぶこと、必要か不必要かもわからない事を続ける意義、それらを追い求めるのは大変でとても不安でもあるのですが、希望の光を感じる方へ私自身の探究も続けていこうとそんな風に思います。