たっきーの自伝 11

高校生最後の年が始まります。
クラスは文系のクラスになり、追加で現代文の授業を取りました。この時点では受験、就職の判断がつかないまま何となく過ごしていました。
学校が始まって直ぐに、5月に先日書いた作文が評価されてアメリカの全米里親大会に行けるかことが決まります。初めての海外。スーツケースを買ったり治安を調べたりしました。英語の勉強を付け焼き刃ながら頑張りました。

そんな中、先日から何度かデートをしていた子に告白しOKを貰います。前の子全くタイプが違う子でしたが、音楽が好きという事で意気投合しました。前に来るタイプではありませんでしたが、志が高く芯があるように感じていまし
た。彼女の姉がcdショップで働いていたこともあり、よくCDを貰いました。

学校の先生には上手く話をつけて、いよいよアメリカに行くことになります。
1週間ほど前に行くメンバーの顔合わせ、今回の企画の趣旨、行程、注意事項などの説明を受けます。
当日、まず、成田空港の大きさに圧倒されます。必死に集合場所まで歩きました。
早く着いたせいか、誰もいなかったので、喫煙所でタバコを吸っていたところ、顔合わせした時にいた方に会いました。集合場所を再確認して、2人で向かうと、何人か集まっていたので、安心しました。
今回のメンバーは、里親会会長夫妻、里親さん3名、ライターさん、通訳さん、里子4名のメンバーでした。かなりバラエティーに富んだ面子でした。
初の海外へのフライトはまずアメリカの西側の空港まで行き、その後乗り換えてフロリダというものでした。最初のフライトで既に疲れてましたが、4時間の待ち時間の後3時間半のフライト。飛行機でもこんなに遠いものかと思います。
フロリダは5月でも真夏のような暑さでした。初日は疲れてすぐに寝ました。
次の日は最初の予定が午後だったので、ホテル併設のショッピングモールをちょっと散策して、外に散歩に行こうとしました。
現地の方が、アリゲーターには気を付けてと言うので、アメリカンジョークだと思って受け流しました。
キャネルと言う水路がたくさんあり、湖や池も多い所なのですが、ホントに沢山のアリゲーターがいたので、アメリカに来たなぁという実感が湧きました。
触ろうと思って近づいて行ったのですが、野生のアリゲーターはものすごい速さでみんな逃げていきます。
午後は全米里親大会のオープニングの打ち合わせをしました。私が国旗を持って回ることになります。アメリカのユースはそれぞれの州の州旗を持って回るので最後に日本の国旗を持ってわ待ってくれとの事でした。ボーイスカウトをやっていたので国旗の重さをものすごく感じました。ここに来て日本を代表してきているのだという事が分かってきます。
夜、ユース4人で色んな社会的養護の経験をクロスさせて仲良くなっていきました。
次の日は、マクドナルド財団とマイケル・ジャクソンがお金を出して作った小児終末医療の遊園地や映画館などがある施設の見学、体験をしました。そういった機関があることにも驚きでしたし、施設の規模の大きさにも驚きました。
全米里親大会も開会して色んな分科会に参加します。大会とは別にアメリカの里親さんのうちに訪問したりしました。そのうちの里親さんで200名以上をアダプションしたというすごい里親さんにも話を聞いたりしました。
アメリカの里子との交流会もありました。話し合う前にアメリカの里子が措置解除になる時に貰うというVHSを見ました。タイトルが確か
HOW TO SURVIVEだったと思います。いかにドラッグに溺れずに夢に向かって、悪い組織と関わらずに生きていくか、生き抜いていくかみたいな事がメッセージでした。フォスターユースが生き抜いていくのは生中なことではないのを感じました。
アメリカの里子にあって話してみて言われました。
日本の制度もアメリカの制度もあまり良くないね。私はアメリカの制度を変えるために法律家になる。どうして日本の制度に疑問を感じるのに、あなた達は何もしようとしないの?
制度を変えるために何かをするという事をする人がいる事を初めて知り、当事者が声を上げるのを支援してるのが素直にすごいと感じました。この言葉を聞いたからこそ、この後社会的養護の当事者として活動をすることになったのかも知れません。
アメリカの当時のフォスターケアには措置変更が多すぎるというのが問題でした。あるユースはハワイとアラスカ以外の全ての州に措置されたと言っていました。それを変えようとユースが主体となって大人がサポートする体制がありました。
我々は日本の問題として日本に措置延長がない、児童相談所が里子のために機能していない、児童相談所の支援に一貫性がないという事を問題としてあげました。
夜プールサイドでパーティがあり、日本の出し物として、皆で炭坑節を踊りました。そこでもアメリカの里親さんと話たりしました。
日が開け、ケネディスペースセンターに観光に行きました。911の影響もあってか、入口の警備員の方はでっかいマシンガンを持っていてびっくりしました。中ではロケットの説明等をされましたが、英語なのでよく分かりません。ロケットのパーツなどの展示はロケットの大きさが分かるもので、想像よりも遥かにロケットは大きく、こんなビルが空に、宇宙に飛んでいくのが想像つきませんでした。
夕食に和食屋さんに行ったのですが、何故かアリゲーターの唐揚げが出てきました。鶏よりも脂が少なく少し硬かったです。あとから聞くと和食とワニ料理のお店だったみたいです。
アメリカに今の日本の制度で言うところの児童自立援助ホームのような所がありました。ビレッジと呼ばれるところに家がいくつかあり、ひとつの家に3~4人ほど住んでる所でした。そこから大学に通ったりしている方もいました。
中には家族再統合のプログラムを受けている方も結構いました。
もちろんしている方はいらっしゃったんでしょうが当時の私は日本で自立支援という言葉を聞いたことがなかったので、新しいなと感じました。
観光でディズニーワールドのエプコットに行きました。水族館や世界各地のパビリオン等があり体験型の施設でした。あまり遊園地という雰囲気ではなく、日本のディズニーランドとは違うと他のユースが言っていました。
エプコットで食べたサラダは付属のドレッシングのようなものがシロップのように甘くて、食文化が違うなぁとつくづく実感していました。宇宙飛行士の訓練体験や、車の衝突テストの体験アトラクションに乗りましたが途中の説明が英語なのでイマイチよく分からなかったです。
人生で初めて他の里親家庭や国の里親制度に関して考える機会でした。もっと英語が出来たら円滑にコミュニケーションが取れたかもと思いました。
日本に帰ってきてから報告会を行いそこで里子の全国団体の存在を知ります。その年の夏休みにキャンプがあるとの事で参加することにしました。
一学期の終わりごろ最終的な進路希望を出さなければいけなくて、三者面談をするとの事だった。里親と相談し、給付型奨学金と入学金、願書の一部補助を申し込めるので、申込むだけ申し込んでみようという事で申し込むことにした。
高校を出て働くというイメージが全くわかなかった。毎日仕事に行く、行かなければならないというのに耐えられるか。
耐えられる気がしなかった。
しかしながら成績はほとんど赤点。試験まで半年を切り受験勉強は全くしていない。大学の学部や学科も知らない。到底うかるとおもえなかった。

夏休み、初めて件のキャンプに参加した。
他県の里子や里子経験者とじっくり話すのは初めてで最初はすごく構えていたが、一緒に遊んでいる間に距離は縮まっていった。夜は各々の経験を共有したりして盛り上がっていた。こういった交流を持っていきたいと参加して感じた。

夏休み後半、里父が欲しがっていた液晶テレビを諦めて、予備校に行くことにしたが、最初に講師から、相当に難しいと言われてしまったので、意気は削がれてしまった。
二学期になったが、まだ受験科目も決まっていなかった。英語と現代文は決めていたがもう一教科は最後まで決められずにいた。
周りも受験というムードにはなってきていたが、相変わらず友達と遊んでいた。
予備校のレベルには全くついていけていなかった。1人で赤本を解いていても捗らなかった。

東京都が里子の当事者を集めて高校生と先輩の交流会を企画したのだが、人数が集まらないので来て欲しいと言われ趣旨が全く見えなかったが、参加してみた。
スーツを着た方が司会をし、初めましての人ばかりの中、録にアイスブレイクも無いまま会は始まり、ギクシャクしたやり取りのまま会は終わった。正直、行かなければよかったとも思った。
そんな中、里親に措置解除になる前に児相に実親のことなど聞きに行った方が良いと言われ、姉と共に児童相談所に行った。
初めて自分の戸籍謄本を見て自分が4男だと言うこと、姉が3女だということを知る。姉とは血縁上の父が違く、戸籍の筆頭者はどちらの父でもないと聞かされた。筆頭者の方は自分の子どもでない人を席に入れたくないと裁判を考えていたが、児童相談所が説得して取り下げてもらったそうだ。ますます、実の母がどんな人かわからなくなった。
相手は資料を見ながら質問に応えると言ったが、資料そのものは見せてくれなかった。
姉は私と血縁上の父が違うことを既に知っていたのも、里親2人もそれを知っていたのもショックだった。
実親には会ってみたい気持ちがあったが、里親はその話題を忌避していたのでもう出せなかった。

二学期末のテストが終わり、日本史の先生に単位を上げられないから、レポートを提出しろと言われた。伊藤博文についてA4で30枚以上。正直そんなことしている暇はなかったが、卒業に関わるので、書いた。しかし、かなり悪い政治家として酷評して書いていった。
偉人としての側面を書いて欲しいという教師の意図からはかけ離れていたので、受け取れないと言われたが、これを提出して単位を出すかどうかはそちらで決めてくれと突っぱねた。結果日本史の単位は貰えることになった。
受験は2校受けた、一校はほぼ記念受験。一校は3教科と1教科で2回受けた。
記念受験のところは全く手応えなく当然のように落ちた。
本命は3教科のうち、選択科目以外は出来たが、選択科目が全くわからなかった。結果落ちた。最終の1教科、英語の試験。試験日は2月24日受けに行った。リスニングの時間、まさかの放送室で日本人のあまり発音が良くないおじいさんが問題を読む。こんなことあるのかと思いながら、集中してといた。そこそこ出来た感覚はあったが、如何せん倍率が10倍以上だった。
合格発表の前に卒業式。
気合を入れて短ラン、髪をスプレーで黒くしてのぞんだ。卒業式後に仲が良かった面子でカラオケに行き、夜学校の前で記念撮影した。
こうして高校生活は終わった。
措置解除を祝うということで、里親会が祝いの会をしてくれるというので参加した。大きなケーキを用意してくれていたが、当時生クリームが苦手だったので断ると、遠慮と取られて結局食べさせられた。
株主優待など土産で貰った。そこに高校生中学生などが来ていたので、交流会をしてはといきなり言われ、仕切りからやらされた。祝われに来たのにありえないと感じながらも適当に皆に話をふったりしていた。
3月半ば過ぎ、合格通知ができて晴れて大学生になることが決まったが、キャンパスが遠い事にそこで初めて気がつく。

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