無彩色の世界で笑う
「黒斗(こくと)さん。あなたいつまで残っている気なの、いい加減自分の置かれている状況理解したら」
彼女はそう言って部屋を出て行った。
ここは私だけの秘密部屋……だったらよかったのに、ここは美術準備室。書きかけのデッサンや彫刻途中の丸太などが所狭しと置いてある。それに準備室は校舎の片隅にあるし運動部や吹奏楽部の騒音もここには届かない、こんなところは美術部の人間でもそうそう来ないし絶好の私だけの作業部屋。今しがた来客があったが気にせず話を聞くふりをして作品制作に取り掛かる。
いつもこの時間は嫌いだ。日が沈みだし私に家に帰れと訴えかけてくる、帰ったとしてもあそこに私の居場所なんてものは存在しないのに。
あたりが完全に暗くなり下校を促す放送が流れ私は鉛のように重い体を無理やり動かし暗い夜道を歩きだす。
家につき扉を開けるとそこ自分にとって居心地が悪い空間が広がっている。リビングには明かりがついていて話し声が聞こえる、それでも私はそこにはいかず自分の部屋のある二階に上がる。私の部屋の前には少量の白いご飯と焼き魚がお盆にのって置いてある、まるで飼っているペットに餌でもやるかのように。
お盆にのった夜ご飯を部屋に持って入り一人静かにいつも通り食べる、食べ終わった食器はのっていたお盆に戻し物音を立てないように下の階にあるキッチンまで持っていき両親と兄のものと一緒に洗い片づける。
「ねぇあなた、さっきから五月蠅いんだけど静かにしてくれる?」
リビングのソファに座りテレビを見ていた母親が顔を動かさず言ってくる。
「ごめんな「洗い物終わったらさっさと部屋戻んなさいよ」
「はい……」
私はすぐに洗い物を終わらせ自分の部屋に戻る。
最初のころはこんな感じでは無かったはずだった、いつからだっけ名前を呼んでくれなくなったのは、いつからだっけ一緒にご飯を食べなくなったのは、もう思い出せないくらい遠くて近いそんな過去。
その日の夜、家族が寝静まった後私は手首を切った。お湯をためた浴槽に右手を入れ、左手に持ったカッターですべての思いを記憶を断ち切りたいと願い勢いよく切り裂いた。
痛くはなかった。
未練も後悔も何もなかった。
あったのは赤く染まる浴槽を見て安心している自分だった。
結果は死ねなかった。
あの後気を失った私は夜中にたまたま起きて風呂場の明かりを消そうとやってきた兄に救急車を呼ばれ助かった。
腕の傷はそこまで深くはなく縫う必要もなくそのまま退院になるかと思ったが精神科に回され入院することになりあの地獄に帰らなくていいと思うと病院も案外良い所なのかもしれないと思えてしまうから、私はおかしいのかもしれない。
入院生活の初めは検診検診の日々、虐待を疑われた私は外傷が無かったためレントゲンやMRIで徹底的に体の中を調べられだがみつかったのは血液検査で出た栄養失調だけ。そこからは毎日カウンセラーの人と話す以外はベットの上で空を飛ぶ鳥を見ているだけの日々が何日か続いた。
さすがに空を見るだけは飽きるので病棟を探検することにした。何度か迷子になりやっとたどり着いたのがリハビリ室。そこから私の世界は無彩色から極彩色に代わる。
「......君! 頑張ってあと少しだ!」
その部屋から聞こえたのは私が一番嫌う「頑張れ」の声、頑張れという言葉はひどく無責任だと思うのは私だけではないはずだ。その言葉を使う人はきっと言われた側の気持ちなんて考えたことがないのだろう。そんなことを考えていると何かが落ちる音で我に返る。
「色人君(しきとくん)!大丈夫!」
「大丈夫です」
私の目に映ったのは真っ白の少年が倒れていた。少年は足が不自由なのか先生に手を貸してもらいながら車いすに乗っていた。なぜだか私はその子のことが気になってしまい気が付いたら話しかけていた。
「ねぇ何が大丈夫なの?」
「へ?」
少年が急に話しかけられたのに吃驚したのか私のほうを見る瞳の瞳孔が少し開いている。
「ねぇ何が大丈夫なのって聞いてるのだけれども」
「えっと……」
「もういい」
なぜだか少年の反応に苛立ちを感じた私はその場から逃げるように病室に戻った。その後は自分でもなぜあんなにも苛立ちを感じたのかわからず布団にこもって現実逃避をしていた。
布団にこもっていたらいつの間にか寝ていたのか窓の外は明るく小鳥たちの囀りが今にも聞こえてきそうなほどの晴天が今の私には眩しすぎてまた布団に籠った。
コンコン
夢の中に入ろうとしていた私を現実世界に引き戻したのは誰かが病室の扉をノックする音だった。
「……はいっていいよ」
布団から顔をだし答えるとすぐに扉は開き、車いすに乗った昨日の少年が入ってきた。
「ごめんなさい。寝てるとは思ってなくて」
「……気にしなくていい。何か用?」
少年は器用に車いすを操りベットの前で止まり私の方をジッと見てくる。この瞳はどうも気に入らない、このルビーのように澄んだ瞳に見つめられると心の奥底にしまった何かを見透かされ暴かれているみたいな気持ちになる。
「あなたとお話ししたくて先生に聞いちゃいました。僕は502号室の色人です。おねぇちゃんのお名前教えてください」
「……は?………黒斗彩夢(こくとあや)」
「あやちゃんって呼んでいいですか?」
「……いいけど。もしかしてそのためだけに来たの?」
「そうです!」
目を輝かせ私の下の名前を何回も復唱する色人を見ているうちになぜだか私の方も頬が緩み何年かぶりに笑った気がする。
「あやちゃん明日も来ていいですか?」
「いいよ」
色人は次の日もその次の日も来た。色人が来てから笑う回数が増えた、最初のころは長年使っていなかった表情筋が悲鳴を上げていたが、今では普通に笑えるぐらいにまで回復した。カウンセラーの先生も私の回復には驚きを隠せない様子でいたが苦しいのはこれからだと言いまだまだ私の入院生活はこのまま続くと思っていた。
ある日を境に色人が病室に来なくなった。
先生に聞いても何も答えてはくれず私の生活は色人と出会う前に戻ったみたいだった、ただ一つ変わったのが絵を描くこと。先生に頼み込み病室に画材を持ち込み色人と会って話す時間以外は絵をかいていた。
その日は突然やってきた、私は先生の発している音が言葉と認識するのに時間はいらなかった。心で拒否しようと体は正常な処理をして私の脳内に先生の言葉を伝える。
『色人が死んだ』
その言葉だけで私の世界が無彩色に飲み込まれた。色人によって奏でられた色たちが私のなかから消えていくのが分かる。最後に残ったのは底の見えない穴ただ一つ。その穴は絶対に埋まらない、これは確信を持って言えることだった。その後も先生は何かを言っているようだったがその音が私の脳内に届くことはなかった。
一週間。それは私がそれは私の脳内に声が届くのにかかった時間。
一か月。それは私が喋るのにかかった時間。
半年。それは私がもう一度笑うのにかかった時間。
そこまで行くのには今まで以上の努力が必要だった。それでも私がここまで持ち直すことができたのは色人が私に残してくれた宝物。
それは形で残すことはできなかったけど私の心の中でちゃんと記録されていた、記憶という形状で。
一年後私は部屋にこもっていた。その部屋はあの地獄ではなく自分で働き貯めたお金で借りた自分だけの城。私の部屋にあるのは数えきれないほどの色人との記憶を絵にしたもの。その絵の中の色人は笑っていた。当時は何がそんなに笑えるのかわからなかったけど今ならわかる、だって私もその感情を知ってしまったのだから。今更気づいても遅いのは知っているけれど私の心は今は無彩色とあなたの極彩色が混ざり合い世界を作っているのだから。
私はこの日一枚の絵を完成させた。
その絵は初めての水彩画であり最後でもあり始まりでもある。
部屋に鍵をかけ私はあるところに向かった、そこは地獄の黒でも病院の白でもない灰色の世界。
開け放たれた窓から風が吹き込み白いカーテンを揺らす。風はカーテンだけではとどまら部屋に飾ってあるキャンバスにかけてあった布を地に落とす。
キャンバスの中にはには一人の少年が無彩色の世界で笑っている。
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