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きのことたけのこの国民的な論争に巻き込まれた元イタリア人

きのこが嫌いなわけではないけど、どうしても食べたい気持ちにもならない。子どもの頃は食卓にきのこが出てくると、一気に食卓は戦場へと変わっていた。
いつ食べられるようになったのかは本人もはっきりと覚えていないけど、今では苦手意識なく、苦労せず、文句なしで普通に口に運んで、体へのエネルギーにするために食べている。

味は何だろう。グミのような食感で、未だにうまく説明できないほど不思議な味だ。子どもの頃、戦場になっていた食事の時間は、今では冷たい風が吹いている砂漠のような感じだ。大人になるまでは、きのことの関係がジェットコースターのように山あり谷ありあって、うまく行かない時もあったわけだ。

どうしても食べたい野菜ではないから、焼くか煮るかしかレパートリーがない。調理法もよく考えたら、焼くか煮るか、ほかがないようにも思う。きのこは栄養以外の部分で人を喜ばせる魅力がないと思っていたのだ。

日本に住み始めてすぐの頃、スーパーに行ったら意外な売り場できのこと出会えた。しかし、なぜここにきのこが?もしかしたら僕は今、夢の中にいるかも?目が覚めたらまだ少年かも?自分の前に現れたものは、紛れもなくきのこだ。ただし、野菜売り場ではなく、お菓子売り場にきのこがいた。本物にそっくりすぎて、声が出た。

「置くコーナーが間違っているんじゃないか?」

可愛くてカラフルなパッケージに、きのこ。このギャップは僕を混乱させた。日本の罰ゲームか何かか?子どもにいいものを渡すふりをして、実はきのことか?

「絶対これだ!」

そう直感で感じた。日本の子どもはイタリアよりきっと大変だなぁ、と真剣な顔で考えていた。
ふと周りを見ると、子どもたちが自分から嬉しそうな顔でこの罰ゲームきのこを取って、母親のところへ戻っていく。母親の顔もキラキラで嬉しそうな顔だった。
お菓子のコーナーだから、きっとこのきのこもお菓子だ。騙されているわけではない!と思っているうちに手が震えてきた。そして、なんとか商品を取ってカゴに入れた。割と軽かったけど、ゴロゴロとたくさん入っているような感覚だ。

帰る途中、楽しさと不安の感情の波が順番に襲ってきた。そもそも、買ったこのきのこの商品は食べ物なのか文房具なのか、それとも本物のきのこなのか。冷や汗が止まらなくなりつつも、何とか無事に帰宅した。こたつに座り、自分の前にこのきのこを置いてみた。

震える手で箱を開けたら、もう一つの袋が入ってた。とりあえず、箱から丁寧に取り出して観察することに。

そして、自信をなんとか探しながら、少しずつ袋を、、、とうとう開けてしまった。

出てきたものはまさかの「きのこ」だった!じっと観察していたら、アパートはいつの間にか研究室のような内装に変わっていた。

袋を開けた瞬間、甘い匂いが竜巻のように広がり、こんなにキラキラしている可愛いきのこを見たことがなくて、途中から緊張していた。最初にあった不安な気持ちが、一瞬でどこかへ飛んでいってしまった。子どもの頃から始まった「自分 対 きのこ」の関係がきれいさっぱり消えた。あの数年間のことはなかったようだ。

僕はふと思い立って、このきのこの山にしめじを並べてみた。するとなんと、違和感がほとんどない。クオリティが高くてさすが日本の発想だ。イタリアではきのこのイメージをしたお菓子は見たことがない。というよりも、欧米人にはこのような発想がない。その理由は、いくら美味しそうなお菓子だとしても、苦手な野菜の形になっていては、おそらく買わないから。僕もきっとそうだ。

苦手だったきのこから進化したきのこの山は、手で持って口に近付ければ近付くほど、チョコレートの香りと焼きたての焼き菓子のような香りで、数秒で恋に落ちた。野菜に見えるお菓子と最高の出会いをする日が来るなんて、未だに信じられない。きっと魔法ではないか。

この話をイタリア現地の友達に言ったとしても、信じてくれる人なんていないだろう。そう思って日本のお土産として持って帰り渡したら、目が飛び出そうなくらい驚いていて、食べたらうっとりとした表情になった。「僕も同じ顔だったような」と思いながら、きのこ専門家のように説明していた。

不思議なこともあった。今まではポテチ以上にクセになるものなんて絶対にないと思っていたなかで、きのこの山はポテチ以上に数秒で無くなってしまうのだ。無くなってしまうのが悲しいのに、食べ続けてしまう。食べ方も楽しくて、どこから食べるとか、頭を取って別々に食べるとか、アイスクリームに刺すとか、まるでおもちゃのような感覚もあって、スーパーで見かけた笑の子どもの笑顔はやっと理解できた。

「最高の仲間ができた!これからはよろしくね」とつぶやいてたところに、またもやとんでもないことが起こった。ここでまさか、こんなことが起こるなんて!僕が日本人になりかけている証拠にもなるだろう。

イタリアにいた頃は食べたことがないというより、「これが食材?帽子?」になるほどのレベル。見た目は可愛くて、きのこのように不思議な味だけど、より食べやい。「竹の子ども」はこんな姿だったのか、と興奮していた。
みなさん、お分かりだろう。「たけのこの里」だ。きのこの山と似ているパッケージだけど形だけ違って、味と食感は一緒だろうとと思っていた僕は袋を開けた瞬間、

「あ!違うんだ!」と声が出ていた。

ここからは人生が変わった。新しい戦場に入ってしまったと言えるか、解決ができない闘いが始まった。

どっちも美味しくて面白い。食感が違っているから全く同じものを食べている気がしないけど、きのこの山を食べたらたけのこの里も食べたくなる。逆のパターンもある。きのこの山の方が好きだと思っていたら、たけのこの里の方が好きかもという、終わらない無限ループに陥ってしまう。

「きのこ派?たけのこ派?」という独特な日本語の会話が、どういう意味なのかわかってきた。
日常生活では、自分からもよく聞いてしまう。気になりすぎて、ついつい知りたくなる気持ちが強くなる。

「海外ではあまりない会話と、野菜から生まれたお菓子について評論する」ことで、きのことたけのこが自分の人生にいかに大切か目が覚めた。生まれ変わったような心になった。子どもの頃は苦手だったもの、イタリアで食べたことがないものと日本で出会って、日本人として新しい人生が生まれた。

「僕はイタリア人でも日本人でもなくて、日本でしか育てられないきのこの山とたけのこの里のハーフ」という生い立ちは。どんな説明をすればいいか、わかる人がいたら教えてほしい。

イタリア人がきのことたけのこの論争に巻き込まれた結果、日本人に変身した。僕は元イタリア人になったけど、どっちが好きなのかますます決めるのが難しくなった。これは、終わりそうにない甘い香りの戦いだ。

おしまい


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マッシ|エッセイスト・ライター
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