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あなたがほしい(後編)
それから1時間ほどが過ぎた。
三人の会話が途絶えた。しばらく沈黙が続いたあとに、一人が「ママ、今日は歌わせて」と言った。ぼくたちが振り向くと、それは時々見かける女性だった。ママはその女性にマイクを渡した。
三人は代わる代わる歌った。そして、何曲か目に高橋真梨子の『for you・・・』が入った。マイクを取ったのは、地味女だった。
歌はかなりうまかった。周りも「うまい、うまい」と歓声を送っていた。それで気分をよくしたのか、だんだん歌声は大きくなっていった。
ところが、歌っていくうちにだんだん怪しくなってきた。大きくなった歌声が、かすかに震えてきたのだ。そしてサビ、そう「あなたがほしい」のところにさしかかった時だった。急に彼女の声が止まり、うつむいて「ああ…」と声を上げて泣き出したのだ。それを見て、それまで歓声を上げていた人たちの声も止まった。
あたりはシーンとなった
もう歌えない。演奏だけが空しく鳴り響いている。二人は、彼女の背中をさすりながら、「ね、悪いことは言わないから…、もう忘れなさい」などと言っている。地味女は、そのつど「うん、うん」とうなずいていた。
不倫女は彼女だったのだ。見た目ではわからないものである。
彼女が泣いている間、すでにBGM化してしまった『for you・・・』が、ずっと流れていた。
その彼女がその後どうなったのかは知らない。もしかしたら、その後もその相手と縁が切れず、今なおズルズルとした関係が続いているのかもしれない。いや、一度不倫の癖がついた身だから、他の相手を見つけたのかもしれない。
しかし、そのことをママさんに聞くことはなかった。なぜなら、次にその店に行った時には、ぼくはもうそのことを忘れていたからだ。
その後、そのことを思い出すこともなく、今に至ったわけである。そのことを尋ねようとしても、もう店はなくなってしまっているから、どうしようもない。ま、ぼくにとっては、どうでもいいことだから、別に知る必要もないのだが。
ところで、あの地味女は不倫相手の前でも、『for you・・・』を歌っていたのだろうか。もしそうだったとしたら、相手の男はどういう反応をしただろうか。寛容に受け止めただろうか?それとも、引いてしまっただろうか?
ぼくがもしその男だったとしたら、どうだろう。
「あなーたがほしい」なんて、目の前でやられるわけだからねえ…。きっと引いてしまうだろうなあ。さらに目配せでもされた日には、怖くなって逃げ出すにちがいない。
だいたい「ほしい」などという言葉は、日本人にはそぐわないのだ。人は物じゃないのだから。