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「幽囚の心得」第17章                                 責任論(8)

 私は弁護士として稼働する中で、およそ司法というものは人々の幸福の為にあると信念してきた。それは起こった出来事、事象を彼ら事件の当事者の人生において如何に位置付けるかという作業を助ける作用である故である。

 アラスデア・マッキンタイアの述べるように人間は物語を紡ぐ動物であり、自己に起った全ての出来事、事象を人生のストーリーの中で一貫性のあるものとして繋ぐことで、自己の存在を確証し、それにより幸福感を得る存在なのである。その幸福の為の司法の作用を享受するに、これをサポートすることが弁護士の最も重要な役割である。

 それにも拘らずだ。私は全くの自家撞着を犯してしまった。私はもはやこれ以上、本来為すべきであった私の仕事を放棄することはできない。それは弁護士資格を保持しているか否かに関わらない、それこそ私という人間の人生の在り方から導かれる必然的な問題である。

 私は過去と現在の自分を一つの価値、これは「正義」という最高位の道徳的価値に代表されるものであるが、その至高の価値で貫かれた人生のストーリーとして繋ぎ、再びに自己肯定に至る狭隘な一路を行く道程にこそ真の「反省」の姿があると考えているのである。その思想の体現は私にとって「生」の証であって、この道の他に行くべき道はない。

 聞き方によっては不遜に聞こえるのかも知れぬ。特に大衆人というものは一旦蹉跌を来し底辺に堕した者の再生を望まず、その者の自己否定を求めるものである。しかし、敢えて言おう。
 私がこの思想を貫徹し、私の持ち合わているものを全て、社会に対して、自らに与えられた役割を果たすことを通じて余すことなく捧げることで、人生のストーリーの一貫性を回復することは、被害者の方が私の愚行により生じた事象を自身の中で位置付け、それぞれの人生のストーリーを形づくっていくことにも、結果、寄与することになるのではないか、そうあって欲しいものだと思念しているのである。私の人生の物語が首尾一貫したものになるということは、私が被害者の方に為した愚行でさえも、現在あるいは未来に対し、ある種の意味合いを有してくることになるともいえるのだ。その意味合いは被害者の方の人生のストーリー形成にも一定の意味付けを齎す。とは言え、これは即ち、被害者の方々のそれぞれの人生の中に私の存在が組み込まれることについて、これを積極的、肯定的に認めていただくという難行であると言わねばならないが、私が為さねばならない事はそういうことなのだと認識しているということだ。
 思念はしても何ら実行を伴わない大衆人は私に対して、何を大言を吐くかと罵るかもしれない。飽くまで自己否定を求め一歩も引かないかもしれない。こう為すべしということが生きる上での本旨だというその課題から目を覆い見ないようにしながら、惰弱な自己を誤魔化しながら生きている彼らにとって、私にそのような正道を貫かれたりしたら、真理の探究を怠ってきた自身の問題が眼前に顕在化し困却することを恐れているからに他ならない。

 勿論、上述しているとおり、私が自身に課した命題は極めてその実現のハードルの高いものであることは十分に理解している。しかし、生きることの意義というその「生」の根本原理が私に他の選択を許さない。生きるということは、本来、そうした緊迫したものなのだと思う。
 私は自身の所業に大いなる期待を有しているけれども、仮に向後、私の期待する自分でないことが判明し、これを私が認めざるを得ない事態が招来したら私は如何にすべきだろうか。そのままでは私は自らの「責任」を十分には果たしていないことになる。その時は自分に為し得るところの「責任」を果たす為の他の方法を別途考えねばならない。ただそのまま呼吸をして食物を喰らう肉の塊に堕することは生きているとは評し得ないのだ。
 考えてもみれば私にとっては、そもそもがもう一度の戦う機会を得るためにだけ与えられた猶予だ。戦いに敗れたならば、もはやそれまでである。潔く腹を切るべきだろう。
 
 山本常朝の『葉隠』には、「若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。」とある。
 二者択一を迫られたとき、「生きる方を選んだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けと誹られるだろう。この辺が難しいところだ。ところが、死を選んでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気違いだと誹られようと、恥にはならない。これがつまりは武士道の本質なのだ。」(『葉隠入門』三島由紀夫)
 図に外れて生きて腰抜けになるより、図に外れても死んだ方がまだいい、そのように言うのだ。
 「生きて恥をかく。武士にあらず。」
 「散りぬべきとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と細川ガラシャは詠む。
 三島由紀夫の辞世にも「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐(さよあらし)」とある。
 
 責任も十分に果たさず自らの「生」のみに執着する無様を晒し、それどころか、悪ぶって世に背を向けこれが自分だと今更ながらの虚勢を張るという滑稽な様を呈する。それはつまりこの期に及び自分のことを認めて欲しいと堕落した世人に媚びる態度であるが、そういった醜状を醸す下劣な人間に成り下がるのか。残念ながら、受刑者にはそのような卑屈な人間が多いと感じる。
 私は思うのだ。与えられた「生」を全うするために、如何にして自らの責任を果たしていくべきか、共に考え実践していこうではないか。本当に自分という人間の存在を愛しているならば、一時の誤魔化しの連続で虚構を重ねても心が充足するはずがない。私から見ると、皆それほど自分を好きでなく大事にもしていないのだろうとも思えてしまう。そうでないならば、自ずから答えは見えている。自分で仕出かした事の始末は自分でつける、出来ないのであれば腹を切ると潔く心を定めよう。それが日本男児たるものなのであり、世人に対し真の「生」の在り方を示す反抗の途なのだ。

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