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「幽囚の心得」第9章 「承認欲求」を排する(4)
話を元に戻そう。
受刑者が卑屈の態で世人に自分を認めて欲しいと彼らに擦り寄っても、自らの再生はおそらく叶わないであろうと思う。世人が受刑者に求めるのは、多くの場合、その者の自己否定である。そして驚くべきことに、世人においてはこのことにあまり深い洞察は伴ってはいないと考えられる。素朴な正義感と過ちを犯し蹉跌を来した者に対する歪な優越感が彼らにそうした態度を取らせるのだろう。彼らは自己否定と従順をもって反省を見て取ろうとする。
しかし、大抵の場合、世人が求める自己否定と受刑者の境地としてのそれとの間にさえ、一つの概念であってもその程度と質に齟齬が存する。それ故、世人の受刑者に対し自己否定を求める思いは完全なかたちでは充足しないのが通常になる。私が徹底した自己否定を一生涯続けることをかろうじて肯定しつつも、そこに至らぬことが大抵で、結局のところ中途半端で何も生まないと断じていることの理由の一端はそういうことにある。
完全な自己否定を求めることは自死を教唆することに等しいと言うべきであるが(自殺教唆罪だ)、世人はそのような自覚もなく短慮している。死刑制度の存廃に関する議論さえ十分になされない軽輩ばかりの日本社会であるから、深慮を期待するのも甚だ難しいことである。世人はその実質的な意味さえ思慮することもなく、しかし、確かに自己否定を欲しているのである。それも半ば楽しみながらだ。受刑者を自分より序列を下に置くことで、怠惰な自分もこいつよりは増しだと安堵する下輩の方が世には多いのである。
このような相手に自らの存在を認めて欲しいなどと「承認欲求」を発したとしても、それが叶い充足することがあると信じることが何故できようか。完全な自己否定、受刑者が寸分も自己を許さぬ極限に至らぬ限り、それ以外に両者が合意に至ることなどないと断じてよかろう。
そもそも翻って考えるに、自己を否定することと自己の存在の承認を求めることは相矛盾している。世人に擦り寄って、自己否定という名の反省の態度を示したとしても、それは世人の求めるものとは齟齬があり、すぐに関係の乖離の実相が現れることは明白である。そもそも人間は自己肯定をするために、その場所に向かい生きている。それが本質である。やがて受刑者も反省疲れを来し、世間に対する疎外感を改めて強くし心虚しくすることになる。
「李下に冠を正さず」「瓜田に履を納れず(かでんにくつをいれず)」という。前者は、李(すもも)の木の下で冠を直すと、李の実を盗んでいるように見えるという意であり、後者は瓜畑(うりばたけ)で靴を直そうとすると、瓜を盗むと疑われるという意である。
いずれも他人から疑われやすい行いはしないようにせよという喩えで使われているが、こうした教訓は飽くまで処世術として自らの振舞いについての戦略的な意味における選択という観点から捉えるべきであって、大きな意味での人生の道徳的な行動選択についてまで広げてこれを捉えてはならない。
また、刑務官は常套句として「疑わしいことをするな。」などと叱言するが、これは施設管理上の都合から彼らが口舌するのも一定の理解はするものの、疑わしいことをしたお前が悪いと一方的に断ずるとすればこれを強く否定しなければならない。状況により評価は違ってしかるべきなのだ。
更にこれは施設内ではよくあったことで大変に忌むべきことだが、刑務官が受刑者に対し、その疑った事実を「認めろ」と圧し、「言い訳するな」などと弁ずるのは以ての外で、極めて一面的な唾棄すべき所為であると言うべきである。やってもいないことにも拘らず、疑われた以上、やったと認めろなどと強いるのは、矯正教育の内容として明らかに間違っている。事実でないことを他者との関係上、事実として偽るということは嘘で仮装しろと促すことであって、それは即ち反対に言えば、他者に見て取られなければ便宜の為に嘘を付いてもいいということにもなりかねない。
自らがそういった場面に遭遇し虚偽の答弁を強いられたら、そのように強く弁駁してやろうと楽しみにして期していたが、残念ながらというか幸いにというか、その機会は訪れなかった。この点、自らの常における戦略的アプローチが効いていたのだろうという自負はある。私に対するそのような軽挙を私は決して許すことはない。