「幽囚の心得」第16章 正義論(4)
ところで、ジョン・スチュアート・ミルは以下のようにも述べる。
「私は効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、どのような見せかけの理論にも異議を唱える。一方で、効用に根差した正義こそがすべての道徳性の主たる部分であり、比類なく、最も神聖で拘束力を持つものであると考える。」
「正義とはある種の道徳的要請の名称であり、これを集合的に見れば、社会的効用は他の何よりも大きく、他の何よりも優先されるべき義務なのである。」
「正義」とは、道徳における最も神聖な部分であり、他とは比べ得ない拘束力を有する、最も優先されるべき価値である。そのことは、ミルの見解に激しく同意する。
しかし、その根拠を究極的なところで「功利主義」の考えに求めることには首肯することはできない。
「功利主義」とは、幸福と利益を価値の基軸、人生の主たる目的とする倫理思想であり、それは事物の判断に費用便益分析を行うことに特徴として現出する。「功利主義」の下では、行うべき「正義」とは効用を最大化することにあるということになる。人間は皆、苦痛と喜びとに支配されているが、当然のこととして、喜びを好み、苦痛を嫌う。我々の道徳性はまずこれに基づきここから出発すべきである。そして、個人として人生において何を為すべきかについて考えるとき、あるいは民主政の下で各政策を選択し実行することについて考えるとき、我々は全体の幸福度を最大化させる方向性をもって行動すべきであるとする。
いわゆる「最大多数の最大幸福」の実現を目指すという考え方である。私は、ジェレミー・ベンサムによって説かれた、このような帰結主義的道徳原理、行為の帰結に道徳性を求める見解には同意できない。全ての価値と事物を並列的に置いて、一つの尺度でその重要さを数値化することなどできようはずがない。帰結が如何なるものとなろうとも、その行為を為す際に求められる倫理的・道徳的要請というものが厳然として存するはずだと思料するものである。
人間の行為とその行為を為す動機には、道徳的価値との関係で質の違いは明らかに存在する。この点、ミルも高級な喜びには、理解と教育を必要とすると述べている。即ち、「正義」というものは高級なものであって、自己の精神を養うことによってのみ、真の価値が磨かれていくものである。禽獣がその本能的欲求に従ってのみ行動することと比して考えれば、このことはよく理解できよう。
そもそもカントの言う如く、道徳性を齎す動機はただ一つ、義務だけである。ここで言う義務というものは自分の外側にあるものではなく、自らの内において生成されていくものである。倫理と言い換えてもいいだろう。自分という存在は内面において、この倫理的なもの、義務的なものと一体のものとならねばならない。「生きる」ということは、自身が常にそのような精神的実体として自らに感得できる状態にあることをいう。「正義」という至上なる道徳観念ももとより内的なものであって、結果として現れた状態をいうものではない。我々が為すべきことは、自分の中の善きものを普遍的な価値のレベルに高めるために修養することである。
一方、リバタリアニズム(自由至上主義、自由原理主義)の論者(リバタリアン)は、選択の自由というものを「正義」の価値の中心に据える。リバタリアニズムは、我々が分離した個人的存在である故に、自由という基本的な権利を有することを基調とするものであり、そこでは自分を所有するのは自分自身であると帰結する。自らが望むことは他者の権利を尊重する限りにおいて如何なることをも行うことができるのであって、国家の在り方も「最小国家」、即ち、契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持するという最低限の務めのみを果たすことを求められ、それ以上は否定される消極国家、夜警国家のみが受容される。
しかし、自由、権利というものの本質を探れば、そこには内在的な規範に従った一定の拘束というものが存することが理解されるはずであり、例えば自らの生命を他者に譲り渡すことが自由や権利の基本的理念から許されないことは自明であると言える。ジョン・ロックは言う。「権利は不可譲なものである」と。