「幽囚の心得」第13章 人権論(6)
一般に表現の自由をはじめとする精神的自由の規制立法は(ⅰ)検閲・事前抑制、(ⅱ)漠然不明確または過度に広汎な規制、(ⅲ)表現内容規制の態様に大別され、これらの如何なる態様においても、合憲性が認められるには特に厳しい基準による審査を経る必要がある。この知識は表現の自由の価値を理解するに重要な関わりがあるので、以下、詳論しておきたい。
まず第一に、事前抑制の禁止である。表現活動の事前に抑制することは原則として許されない。憲法第21条2項前段が「検閲はこれをしてはならない」としているのは、この事前抑制禁止の法理を確認したものであると解すべきである。
ここで検閲とは元々「公権力が外に発表されるべき思想の内容をあらかじめ審査し、不適当と認めるときは、その発表を禁止する行為」をいうものとされていたが、今日ではこの検閲の対象について、思想の内容に限定せず広く表現内容と解するのが適当とされている。
また、検閲の時期についても、表現の自由を知る権利を中心に再構成する立場から、思想や情報の受領時を基準として、発表の後、受領する前の抑制でもそれが思想や情報の発表に重大な抑止的効果を及ぼすような事後規制と評することが出来る場合は検閲禁止の問題に対象として含ましむると解する立場が有力である。
以上は芦部信喜教授の説によるが、この芦部説を再度整理すると、検閲の禁止は事前抑制禁止の理論と別異に捉えるべきでなく両者は同一であり、公権力が表現内容を予め審査し、不適当と認めるときは、表現を受領前に抑制したり、その表現に重大な抑止的な効果を及ぼすところの事後規制を行ったりすることをいうということになる。 芦部説では、検閲ないし事前抑制は例外的に一定の要件に下で許されることもあり絶対的禁止ではない。
この点、受刑者は信書の発受や図書の閲覧について刑事収容施設で実施されている「検閲」の合憲性如何に関して関心を寄せるであろう。
「よど号」ハイジャク新聞記事抹消事件は、昭和44年の国際反戦デー闘争等において公務執行妨害等の罪名で起訴された勾留中の被疑者が新聞を定期購読していたところ、たまたま発生した日航機「よど号」乗っ取り事件に関する新聞記事を拘置所長が全面的に抹消するという対応をしたところ、その抹消の処分は表現の自由の一内容である「知る権利」を侵害するものであるとして争われた事件である。
この事件で最高裁判所は比較衡量論を述べる。比較衡量論とは、すべての人権について「それを制限することによってもたらされる利益とそれを制限しない場合に維持される利益とを比較して、前者の価値が高いと判断される場合にはそれによって人権を制限することができる」という違憲審査の基準に関する一つの理論である。
最高裁はこの論を述べた上で、新聞閲読の自由の制限は在監目的を達するために「真に必要と認められる限度にとどめられるべき」だとし、監獄長による抹消処分が許される限界について、閲読を許すことにより監獄内の紀律及び秩序の維持にとって障害が生ずる「相当の蓋然性」があると認められることが必要であると判示して当該抹消処分は適法であるとした(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)。
そして更に、最高裁平成6年10月27日判決(判事1513号91頁)は、監獄法50条(現刑事収容施設法127条)・同法施行規則130条に基づく在監者の「信書ノ検閲」を上記判例の趣旨に徴して憲法21条に反しないことは明らかであると説き、税関検査事件と「北方ジャーナル」事件の判決の趣旨に徴して憲法21条2項にいう「検閲」にも当たらないとした。
ここで「北方ジャーナル」事件等の判例を見るに、憲法が「検閲はこれをしてはならない」とその絶対的禁止を明示しているようにも解される検閲概念については、その主体を行政権であると限定している(狭義説)結果として、裁判所による仮処分手続等による事前抑制は検閲に当たらないとし両者を概念的に区別しているが、これはあまりにも形式的・画一的に過ぎる見解であろう。
また、税関検査事件最高裁判決は、検閲とは「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき、網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること」と定義し、税関検査については表現物は国外で発表済のもので、輸入禁止されても発表の機会が全面的に奪われるわけではないこと、検査は関税徴収手続の一環として行われるもので、思想内容等の網羅的審査・規制を目的としないこと、輸入禁止処分には司法審査の機会が与えられていることから「検閲」には当たらないとする。
しかしながら、この判決の検閲概念は対象を「思想内容等の表現物」とし、それを「網羅的一般的に」審査する場合に限定しており、狭きに失すると言うべきである。検閲を絶対的禁止であるとして論を進める故、このような解釈によらねば不都合が生じてしまうものと思われる。
なお、最高裁平成11年2月26日判決(判時1682号12頁)は監獄法46条1項(現刑事収容施設法139条)に基づく死刑確定者の信書の発送の不許可処分を監獄長の裁量を尊重して適法と判示したが、この判決にはより厳格な審査を求める反対意見が付されている。
そして同じく、刑務所内の実情を明らかにしその改善を求めた国会請願等について取材・報道することを要請する内容の新聞社宛の信書について、その発信不許可処分の違法性が争われた最高裁平成18年3月23日判決(裁集民事219号947頁)では、裁量権の逸脱が認められている。
思うに、信書の事前抑制は行政権の行使として刑事施設長の権限の下で行われ、外に発表されるべき、表現内容を予め審査して不適当と認めるときはその発表を禁止するものであって「検閲」に該当するものと言うべきである。そして、その検閲の実施は監獄内の紀律及び秩序の維持のための施設管理権の行使として、また、教育刑としての刑罰の実施の見地から、その表現内容が受刑者の改善・更生・社会復帰に向けた矯正教育にとって支障が生ずることの「相当の蓋然性」があると認められる場合に初めてこれを不許可とすることができると解することが妥当であると思料する。
憲法21条2項後段は通信の秘密を保障しているが、それが表現の自由と共に規定されているのは、葉書・手紙、電信・電話等全ての方法による「通信」が他者に対して意思を伝達するという表現行為の一種であるからに他ならない。そして、公権力による通信内容の探索の可能性を断ち切ることは政治的表現の自由の確保に繋がる故であると解される。一方、通信の秘密の保障は特定人間のコミュニケーションの内容をみだりに知られないようにするという利益を保護するという側面も有している点で、憲法13条から導かれるプライバシー権と同質の性質を有していると言える。