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「幽囚の心得」第23章 懐疑主義と不条理(1) 「人間本来的な知性と精神の活動の自由は懐疑論のうちに存する」
令和6年5月29日に仮釈放の予定である。この原稿を書いている今日は同年5月26日、弁護士であった亡父菅谷哲治の祥月命日である。在監中の最後の原稿となるであろう。仮釈放後はまず最初に墓参しようと思う。
私は快楽的原理の下で野放図な自由と解放だけを個人の唯一の在り方と考える短慮者ではない。周囲の同衆の多くは仮釈放の実施を至上の価値とし、手続的推移を見ながら一喜一憂しているが、私の思うのは日々の修養の行のみである。
私に起きた、また私が起こした過去の事象は全て、現在の時間空間と融合し現在の自分の一部を構成した欠くべからざる要素である。これは施設内に収容されたこの時間も例外ではない。
私は自身に科された刑罰を単なる不利益処分に終わらせてはおらず、既にその積極的意味を見出すことに成功している。私にとって、世人が求めて已まぬ、刑罰の応報の機能は薄弱である。
しかるに、仮釈放がなまなかには実施されぬ状況下にあって、浅慮な讒訴者たる地方更生保護委員会の小輩などは恰も私が命乞いをする惰弱なる卑俗であるかのように弁じたかもしれぬが、それは全く軽薄な実相に合わぬ評である。大方、自らの凡庸なる心気に照らしてそうと誤謬を犯したものであろうが、私はそれを自身に対する甚だしい侮辱と捉える。悪心はなくも軽薄はそれ自体罪であると心得よ。
人間本来的な知性と精神の活動の自由は懐疑論のうちに存することを知った。懐疑論は際限ない知性と精神の躍動を呼び、人間を人間ならしむるものである。人間が人間たり得るのはその幾多の作用の先である。徳を積むということはそういうことだ。
ブレーズ・パスカルは「人は不確実なもののために働く」とする。
不確実なものに対する邂逅の連続、それが人生というものである。不確実なものに対する邂逅は懐疑を生み、懐疑はなおも普遍的認識を求め論理を生む。
凡俗は単に愁嘆するのみで論理とは疎遠だ。真の懐疑家というものは常に論理の追求を已まない。多事多端な職業生活の中で、私の懐疑主義は随分と脆弱なものであったと気付いた。面壁6年余の修養は無駄ではなかった。
暴力的権力行使の現場は懐疑主義はほぼ見当たらない。そこにいるのは独断家のみである。彼らと接するのは極めて退屈なことである。独断家は論理を知らない。独断家は外見的には権柄ずくでものを言うなど強がるものの、その内面は尫弱(おうじゃく)であり、また論理によらない分、底の浅薄なることがすぐに露呈されるものだ。
元々独断家というものは精神活動の刻苦に怖気た逃亡者であり敗残者なのである。その心性は中途半端な知性を持つ者ほど歪なものとなる。独断家は形式的、表面的にしか論理を扱う能力を持ち合わせていないところ、自らの尫弱さを覆う為、時として非論理的な形のままで実質論らしき体裁を整えようとする、そう、そこに不条理というものが現れるのである。
しかし一方で、懐疑家はその不条理をそれとして認識したまま、なお統一を求め思索を続ける。懐疑家がそこにおいて求められるものは頑強であるということである。
不条理は人を煽動し飛躍を促がすが、それは堕落に他ならない。こうしてまた、絶望を蔵した堕落した独断家が排出されていく。独断家たちは、精神の頑強な懐疑家を傲慢であると糾弾することになる。我が身危い故であろう。そこでは論理と合理は放逐され、屈従するか、不利益を甘受するかの二者択一を迫るのが常態である。勿論、屈従について真の懐疑家の返答は否である。
このような構図は、現代の日本社会の至るところで見られ蔓延していると言わざるを得ない。そうした状況が精神活動を伴わない我欲と自己行動との距離の近接性という無定見で低俗な風潮を生み、凛然とした日本人本来の精神を失わせているのである。
心底において己れすら信頼し得ない故、他者を信頼することなど出来ない。これは即ち、精神活動の欠如が齎しているものだ。他者の内なる思索と覚悟という自らの内に存しないものは絶対的に排除せんとする怯懦の者の振舞いである。刑期5年目を終えようとしている時期に私の周囲で起こっていたことはそういうことであったのだ。
私の内なるところのものは、利己と利他がほぼ融合している。これは面壁6年余の間に更に促進したが、こういった精神活動の帰結は自己保身のみに執着する怯懦の独断家には理解不能である。利己主義をのみ軸にそれに仮装を施している者同士の世界の中で、予定調和の空疎な反省の弁が飛び交っているというのが現在の刑事収容施設の醜悪な姿である。ここでは思想なき姿こそ反省を表すとの邪説が罷り通っているが、私がこれに追従することはない。