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「幽囚の心得」                                                  第2章 「連続性」の意義(2)

 自らの人生がスタートした後において、過去から受け継いだ価値は自己に連綿として影響を与え続け、「連続性」は作用し続ける。

 人生の中で起こった出来事、出会った人々との交わりはすべて自己の人生に何らかの価値的影響を与えているのであって、その意味においても「連続性」の概念は、人生のストーリーを紡ぎ、人生の意味を探究するについて極めて重要な要素となるといってよい。ある特定の時間や他者との交わりを消し去り、人生の時間を寸断し、無理やり気に入る部分のみ繋ぎ合わそうとしても、そのような継ぎ接ぎだらけの人生の虚構に当の本人が深層の心根において気付かぬはずがない。そのようなことで自分の人生を本当の意味で生き切ることなど不可能である。ところが世には、自らに起った事象、他者との過去に存した交わりに淡泊である者が意外なほどに多いことに驚くのだ。私にはその執着のなさが自身への愛情の薄さを示すものに思える。そのような皮相で虚構に覆われた人生に頬被りをして生きることの何と愚かしく虚しいことであろうか。一体そのどこに「自己」があるというのか。

 戦後日本は米国占領下において、その固有の文化的、精神的価値を繊弱化され、平和主義の美名にそそられ、専らの物質至上主義に走ってきた。そこでは論理や合理が至上のものであるとされた。しかし、論理や合理の出発点は論理や合理では説明できないという真理を日本人は看過してきたと言わねばならないのではないか。そこには必ず伝統的価値、道徳観というものがあるのだ。

 三島由紀夫は、昭和45年(1970年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地における蹶起の際に書した『 檄 』において以下のように慨嘆した。

「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかった。」

 そして、同じく昭和45年の7月7日付サンケイ新聞夕刊に掲載された『果たし得ていない約束』と題する寄稿でその半世紀後の現在の日本の有り様を言い当てるように言い放つ。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。」

 現在の日本は、経済成長が停滞する中、三島のいう「魂の空白状態」にある故の問題が種々顕在化し、人々は空虚な面持ちで、浮き草のように、根無し草のようにただ浮遊している。私は戦前の日本の歴史をすべて肯定的に捉えようというのではない。しかし、戦前の日本の伝統や精神が戦後において希薄化し、日本社会そして日本人の心に価値の「連続性」が喪失されたことは紛れもない事実であろう。そして、この「連続性」の喪失・断絶が日本人のアイデンティティの喪失を招いたというその両者の連関の事実は強く指摘せねばならない。この「連続性」を軽視して、人が己れの人生の意味を感得し得心することなど到底できないということを我々は決して忘れてはならないのである。自らが「日本人」であり「日本」で生きているというこの歴史の「連続性」の意義をもう一度見直さなければならない。

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