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「幽囚の心得」第18章 幸福論(7) 「利他に向けられた行為は最高善としての正義に適うものでなければならない」
哲学者の中島義道氏は、「自分が死ぬかぎり、いかなるかたちでも幸福はない。『死』は唯一の『絶対的不幸』である。『死』とは実はその者の在り方そのものが消滅するからである。他の不幸はこの構造のうちの様々な苦痛であり、その意味で相対的であるのに対して、『死』とはこの構造そのものをかたちづくっているという意味で絶対的である。」「人間としての私にとって、死は生と対立する概念ではない。人間的に生きていることそのことがまもなく死ぬことを知りつつ生きていることなのであり、つまり死の絶対的不幸とは人間として生きることの絶対的不幸にほかならない。」としている。
巷で言われる「幸福」の概念は「死」の存在について見て見ぬふりをすることで支えられているにすぎないとするのである。
私は「死」が「生」から離れて対立した概念ではなく、むしろ「死生一如」のだという想念についてはこれを首肯する。
しかし、「死」が絶対的不幸だとする点は全く見解を異にするものである。
そもそも「利他の精神」に満ち満ちた境地においては、その精神の時機を得た発現の先にたとえ「死」が訪れたとしても、やはりその者は「幸福」なのだ。
「死」についての考え方は次章で詳論するが、「死生一如」は「幸福」に至るための絶対的境地である。他者の為に、そして公の為に身を捧げ奉ずる精神は日本人本来の精神的価値観なのであって、あらゆる「死」は不幸であると画一的に捉えるべきものではない。人生のストーリーは美しくあらねばならない。我々はそのストーリーづくりの為に生きているのだ。そして、人は勇壮烈々たる「死」によって美と関わるのである。
「利他の精神」を自身のものとし、自分自体、自分そのものとすることで初めて真の「幸福」を獲得できる。
尤も、「利他」という思想の実質は更に深く考察する必要がある。思想が思想たり得る内面の意義を携えるには、「利他」とは如何なるものと捉えられるべきであるか。これが単なる美辞麗句に終わるのでは何らの益もない。
この点、「利他」主義の内容を定義するものとして、近時は「合理的利他主義」、「効果的利他主義」という概念が提唱されている。
前者の「合理的利他主義」(rational aitruism)とは、フランスの思想家ジャック・アタリにより提唱された見解で、他者を利することが結果として自分を利することになるのだという「間接互恵」の関係を想定し期待した考え方である。
自己の利益を動機とする点に特徴があると言えるが、この主張は「利己主義」の延長にしか見えず、真の「幸福」を得る主因となるところのその志向する「利他」の観念とはその価値について大いなる隔たりが存すると言わねばならない。
次に後者の「効果的利他主義」(EA、effective altruism)であるが、これは根拠と理性を使って、どうすれば他人のためになるかを考え、それに基づいて行動することを提唱する哲学的・社会的運動である。オーストラリアの哲学者であるピーター・シンガーらによって提唱された、この見解の下では、人々は自分にできる「いちばんたくさんのいいこと」をしなければならないと考えることになる。
しかし、「効果的利他主義」は「最大多数の最大幸福」という功利主義的な発想に基づくものであるところ、そこにおいては定量的な貢献の最大化が求められることになるため、効果の測定が困難な分野に対する貢献は効果的でないとして切り捨てられる可能性が高い。
そもそも「利他」とは心の在り方の問題であり、数値化される対象としては全くそぐわぬものであることを強く指摘しなければならない。「利他」とは内発的性質のものであり、外部的な成果によって規制されるものではない。
思うに「利他主義」とは、透徹した全身全霊の自己犠牲であり他者貢献である。加えて言うに、「利他」に向けて為される行為はその方法も結果も善きものとして最高善としての正義に適うものでなければならない。その実質を備えたものが、「利他」の思想に合致する。
更にまた、ここで私は自己犠牲という言葉を使ったが、それが見返りを求めるものであってはならないのはもとよりである。
純化された「利他主義」は、自己の内面における高貴なる精神活動の帰結なのであって、如何なる意味の自利も他者の自己に対する感謝の心持ちさえも求めてはならぬ、全く自己の内において完結したものなのである。
「利他主義」はその実践の場面において、得てして相手方との間で支配被支配関係を生みやすいということには特に注意を要する。「利他」の思想はそのような低俗なものでは断じてない。報われるか報われぬかは、「利他」の思想の具現化の価値の外部の問題であり、それによって、「利他」の道徳的価値には何ら消長を来さない。
このような純一な「利他」の精神を貫徹し得る者の心の有り様は極めて強靭なるものになると言えよう。弱い精神しか持ち合わせていない者は、自己の利に聡く狡猾である。
現代は強いことの価値が疎んじられ軽視されているが、合理的思考に偏重し、損得勘定を働かせ、功利主義的判断をしか行わない、そうした下劣低俗な風に侵された大衆の性質にそれは見事に連関、連動したものとなっている。
真の意味の「利他」という思想は強靭なる精神の下においてしか生まれない。他者に優しくあることができるのは強さに裏打ちされているからである。惰弱な人間は本当に優しくなることなどできない。