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「幽囚の心得」第10章                    大衆を忌避せよ(2)

 オルテガの著作である『大衆の反逆』は1929年に刊行された大衆社会論の嚆矢ともいうべき警世の書であるが、私はオルテガの同書における論が現今においてこそ、より顕著に適合していることに驚きを禁じ得ない。

 今日において、大衆は大衆であることの権利を主張し、自分たちこそが「社会」の中心であり、スタンダード(標準)で正当な存在であると自認している。大衆にとって異質な存在は不正であり不当である。そのような者は批判、非難の対象であり、排除の対象として決して認め得ない存在である。

  特に受刑者という異質な存在は、彼らにとって自身に劣後する地位にあらねばならないと考えている。
 劣後する地位にある者の存在は、大衆の大衆であることを認めさせ、彼らの自信を大いに深めることになる。大衆は自分たちと違う異質な存在に対して総じて敵意を有しているが、このうち劣後する地位と認める存在に対しては、蔑みの心根を合わせ有している。

 大衆にとって、自分たちより劣後する者たちの存在は自分たちの在り方の正当であることを基礎付ける意味を有するものであるから、決して失いたくはない存在だ。彼らは自身の内において固有の評価基準や主軸を持たず、自らの存在は周囲との関係において、相対的な視点をもって確認されるのみでである。それ故、劣後の者は彼らにとって大変有難い存在なのだ。あいつらより自分は上に位置するとして安心したいのだ。当然、その関係は固定的でないと困ることになる。

 刑事政策学において、受刑者の社会復帰の阻害要因の一つとして上げられるいわゆる“レッテル貼り”はこのような大衆社会の性質から導かれるものなのである。
 しかし、我々受刑者は、この風のまにまに漂う浮標のような大衆人に軽侮され、貼られたレッテルに甘んじていくべきなのであろうか。大衆の心の安寧の為の存在であり続けるだけでよいのであろうか。息をしているだけの禽獣のような生に意味などあるのだろうか。答えは当然、否である。それは“生きる”という評価に値しない。

 今日において大衆の横暴は極まりない。オルテガは大衆人の心理図表に存する以下の二つの特徴を指摘する。
 「自分の生の欲望の、即ち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩」の二つであるが、「この二つの傾向はあの甘やかされた子供の心理に特徴的なもの」であるとしている。
 「甘やかされた大衆は、空気と同じように彼らの意のままに供されている物質的・社会的組織も、空気と同じ起源をもつものだと信じてもおかしくないほど、知性が低い。それほど、。これら組織も一見したところでは、涸渇しそうになく、ほとんど自然物同様に完全だからである。その組織的完全さが、受益者たる大衆が、それを組織とは考えずに、自然物と看做している原因なのである。」

 「彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じいない。彼らは、文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意ともってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築とを見て取らないのだから、自分たちの役割は、それらを恰も生得的な権利でもあるかの如く、断乎として要求することにのみあると信じるのである。」

 「従来の大衆人は、自分は本質的に物質的制約とより高度の社会的権力に絶えず対面させられていると感じていた。彼らが万一境遇を改善し、社会的に地位を向上するようなことがあったとしたら、彼らは、それを偶然にも彼に頬笑みかけた幸運をなせるわざに帰したし、またもし、幸運のなせるわざでないとすれば、どれほど大きな努力を必要としたかは、彼ら自身がよく知っていた。」

 「これに対して、今日の大衆は完全で自由な生の状況を何らの特殊な原因もなしに、既に確立したものとして生まれながらにして見出す。大衆に対して自らの限界を自覚させるように仕向けるもの、つまり、自分が下す審判以外の審判、特に自分に優る審判があらゆる場合に存在するのだということを自覚させるように仕向けるものは外部には何もないのである。」

 「いかなるものも、またいかなる人も、彼に対して、彼自身が二級の人間であり、極めて限られた能力しか持っておらず、彼の自分自身に対する自己評価の根拠となっている幅広さと満足感を彼の生に与えている組織そのものを自ら創造することも維持することもできない人間であることを自覚するよう強制しない。」

 オルテガはこのような性格を有する大衆人を過保護の「お坊ちゃん」と呼ぶ。高度で豊かな社会環境を作り出した選ばれし人間に対する畏敬の念も感謝の念も有さず、その環境を恰も空気の如く自然物であるかのように錯覚し、自分が恰も自足し自律している人間であるかのように錯覚している。そのように厳しく評するのである。

 

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