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「幽囚の心得」第16章                              正義論(5)

 人間の尊厳に基礎を置かぬ如何なる価値も「正義」の概念に値するものとは言えない。

 何度も述べたが、常民が安易に観念しているような何らの拘束も存しない「自由」、これは「絶対的自由」と言うべきものであるが、そのようなものは世に存在しないのである。「自由」と称されるものは実は「自律」そのものであって、両者は同義である。

 リバタリアニズムによると、我々が生きる上で目的とすべき道徳的価値は「正義」の概念の外にあることになるが、このような論説が強める世の風潮が過度な自由市場の伸長を是とし、却って他者の尊厳的生に十分に配慮しない社会の自儘さを生んでいると言うべきである。「正義」の観念を道徳的価値から離れて位置付けることは、「自由」の概念を「権力からの自由」たる性質のみに偏って理解する立場、即ち、いわゆる現代におけるリベラル思想に立脚するものであると言える。ジョン・ロールズ等の平等主義を重視し、「正義」の観念を配分的「正義」ないし公正的「正義」の場面においてのみ用いる見解も同様の立場と言ってよい(『正義論』)。

 しかし、現代における道徳の後退は、本来、「善き生」と一体であるところの「正義」の価値を十分に考察し深慮しない現代社会の在り方から導かれていることは疑いない。道徳的価値に関わらない現代政治の有り様は、市民の精神生活を著しく貧弱なものとしていく。これは由々しきことだ。そもそも道徳的な信念に一切関わりなくこれに基づかない政治的主張や論争など存しないはずなのだ。政治というのは道徳的なものだと私は信ずる。

 アリストテレスは我々が「善く生きる」ためには「美徳」を得なければならないとする。先に「美徳」とは公民的なものと述べた。「美徳」とは必ず他者の存在が前提とされるのである。「美徳」ある者は社会全体における「善」の在り方について深慮し、その実現の為に自己の利害に関わらず行動を為す。

 アラスデア・マッキンタイアは以下のように言う。
「われわれはみな、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する。私はある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や業界の一員だ。私はこの部族、あの部族、その国民に属する。したがって、わたしにとって善いことはそうした役割を生きる人にとっての善であるはずだ。そのようなものとして、私は自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去からさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは私の人生に与えられたものであり、私の道徳的出発点となる。それが私自身の人生に道徳的特性を与えている部分もある。」

 私にとって「善い事」は社会全体にとって「善い事」である。そうした「善き生」を追求することが「生きる」ことの真実の姿であり、そこに至上の価値が存するのである。

 マッキンタイアの論を再度見ておこう。
 即ち、人間は本質的に物語を紡ぐ動物である。
「『私がどうすればよいか』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか』という問いに答えられる場合だけだ。」
「自己というものは、ある程度までその人が属するコミュニティや伝統や歴史によって規定され、負荷をかけられている存在である。」
「私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれている。」
「私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係をゆがめることなのだ。」

 自分にとっての「善」は社会にとっての「善」でなければならない。そうであって初めてその「善」は「正義」の道徳的価値を有することになるのだ。

 勿論、特定の共同体における偏った考えに同調し、単純にこれを是とすることには問題がある。「正義」の考察は、もとより普遍的な価値としての「善」の探究から始めなければならない。「正義」を特定の慣習的な環境から生まれるものとするのでは、「正義」の道徳的価値が大きく損なわれてしまうのであって、「正義」の観念というものは、人間の、人類全体の「善」を深く意義あるものとするには如何にあるべきかという観点から考察されねばならない。
 

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