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「幽囚の心得」第19章                           死生観(2)                               「生命の本質は生命燃焼にある」

 執行草舟氏は、生命燃焼はそれ自体がそもそも生命の本質なのだと言う。生命は燃え尽きながら、ボロボロになって錆び衰えて死ぬためにあるのであって、それが一番良い人生を創る、そしてそうではなく、疑いを持って燻ったり、中途半端で燃え滓が残るような生き方が、一番駄目な人生であると断ずる。

 全く首肯し得ることだ。現代日本社会では、誰も彼も燻ったような燃え方しかしていない。燻った中途半端な生き方をしながら、自分を認めて欲しいなどと甘ったれた面を晒しているのだ。全く見られたものではない。そうした者たちは互いに身を寄せ合い「世間並」という衣で身を覆い、人生を感得したかのように思い込もうとすることで自らを誤魔化しながら生きているのである。肉体を大事にして精神を大事にしていない。生命を尊重するのみで魂は死んでもよいと考えているが如くである。

 モーセの言葉に「人はパンのみによって生くるにあらず」(『聖書』「申命記」)とある。

 魂を生かさないと人間は真に生きていることにはならない。魂というものは、生命燃焼によって生かされるものである。つまり魂は命を何かに捧げることを求めるものなのだ。
 ここで、その何かとは何であるか。「志」であり「理想」であり「使命」であり、それらに対する「信念」である。「志」を高くして、確かなものとしていくことを「魂を磨く」というのだ。

 執行草舟氏の言によると、「『生命燃焼』の基準というものは、自分に与えられた使命に体当たりをするということである。」
 「魂を磨く」には、この「体当たり」をする精神が必要なのだ。「体当たり」とはどういうことか。目的の為に肉体を擦り減らし、命を顧みず捨てる覚悟を持って事に臨むということである。

 フランスの哲学者アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)は「魂とは肉体を拒絶する何ものかである」とする。

 魂を大事にするときは肉体は酷使されるのが常態である。肉体に酷使を強いるのは「勇」の徳である。魂の働きは「志」の為に命を捧げることを伴う。その実践によって初めて魂は生きる。肉体的な生死より大切なものは魂の生死である。魂を生かす為に被る不利益があるとすれば、そんなものは堂々と受け切ったらいい、ただそれだけのことだ。
 俗世においては、魂を生かせていない凡俗があらゆる妨害を働かすことが想定される。しかし、その為に魂の活動を停止してはならない。
 刑事収容施設も俗世の一部だ。魂の活動を阻害し彼ら凡俗に習わせようという意図で受刑者に対応して来る。これに抗う者は彼らが有する権力の行使によって抑圧される。
 しかし、そんなことで凡俗に日和見し迎合するようではそれは真実、魂を生かす覚悟をしているとは言えぬ。

 勿論、その前提として、生命燃焼の対象たる「志」や「理想」を見出していることが必要だ。この「志」や「理想」を見出す為の精神的営為を修行、修養という。
 刑事施設内で、娯楽に興じて時間を潰して来た徒輩は世の凡俗に抗う資格などない。世人一般の後塵を拝することを諾として受け入れ恭順を示すことだ。これをも拒む者は、そういう輩が多いのが受刑者の特徴であるが、凡たる世人にも遠く及ばぬ塵埃そのものたる存在に過ぎない。

 損得哲学の下では人生は輝かない。
 自分の肉体を投げ出して命を擦り減らしていくことで、その先に運命というものが見えて来て、自らに固有の人生が成っていくのである。固有の人生を成立させることができなければ、人は何の為に「生」を受けたのかその意味を失う。

 再び執行草舟氏の言葉を借りる。
「志が本物であればあるほど、却って反対は大きい。周りにいる人が納得するようなものは志ではない。それは『状況判断』という範囲のものである。志というものは、純粋に魂の問題である。固有の魂なのだから、自己以外の人間にはすぐ理解できるものではない。社会などの状況に合わせた判断なら、皆がいいと思うわけだが、そんなものは志ではない。」

 


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