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「幽囚の心得」第12章 規範の存立根拠 ~合理の裏付けと慣習的価値~(6)
戦後民主主義の下での教育は米国の影響下にあって、極端に唯物主義と合理主義に傾いたものとなり、我々日本人が建国以来二千六百年余を掛けて育んで来た伝統的価値を排除せんとして来た。その結果、世にある価値の全ては合理によって説明し得ると軽信する軽薄な世相が形成されてしまった。経済成長が鈍磨し人口減少社会を迎えた現代日本において、世人がどこか空疎な心気で浮遊しているのは、合理のみによっては満たされぬ人生の寂寥に出口が見えぬ自身の無力を感じているからである。
我々の心が満たされ幸福を感じるためにはどうしたらよいのか。合理によらぬ慣習的価値に目を向けてこれを探求することである。経済優先の物質至上主義の価値の下では我々の心は満たされることはない。
会津藩では藩校である日新館に入学する前の6歳から9歳までの藩士の子弟は十人前後の集まりを形成していた。これを「什」といい、「什」ではこの幼き子たちを教育する仕組みが確立していたのである。そこでは「什の掟」という定めがあり、会津藩士の基礎的な精神の支柱たる心得となっていた。「什の掟」において最も特徴的な教えは「卑怯はならぬ」ということにあり、これを含め「什の掟」の禁止事項は全て理由を付さず、「ならぬものはならぬ」と戒められている。そこには合理による裏付けは存しない。人として「ならぬものはならぬ」のであって、それが道義というものである。
つまり世の掟、ルールには合理に基づく正当化根拠を持つ狭義の掟、ルールと、これに慣習的価値に基づき築かれた道義上のものを加えた広義の掟、ルールというものがある。
「卑怯」が「善」でないことには理由はないが、多くの日本人は心底においてその価値を肯じていると思う。ただ、合理主義一辺倒の社会は「卑怯者」のエクスキューズを許しかねない土壌がある。「卑怯」のどこが悪いのか、合理的な理由はないのではないか、他者もその程度の事はしているではないかと自らの不逞を弁疏するのだ。彼らは、そもそもその「卑怯」の評価は相対的なもので人によって異なってくるものだろうとして、合理の傘に逃げ込むのである。
受刑者の再生の為の第一条件は「卑怯」を忌む価値を確認し、内において醸成することである。受刑者の中で話をしていて特に気になるのは、ルールを破ってもばれなければよいと考える徒輩が散見されることである。彼等には自らの中に何らの基軸もない。ただ欲望の赴くままに振舞うのが彼らの常態である。刑事収容施設では強制力の下支配されている故、已む無くこれに従っているだけであり、社会復帰をしてこの強制が外れたら元の木阿弥となる。刑罰は彼らにとって単なる不利益処分であり、その時間は彼らの人生にとって何らの意味も有さない。彼らの中で「卑怯」とは、人によってそうと評価するか否か異なる相対的なものであるばかりか、たとえ「卑怯」と認めても自身の利益になる場合はその価値を後退させてしまうという、腐臭を放つ有り様を示すのである。
受刑者に有りがちな価値判断について言及すると、これは経済犯によく見られる傾向であるが、リスクをバーターで捉え、割に合うか合わないかという視点から行動選択をする思考パターンをすることも極めて気になる点である。つまり、犯罪として立件されて収監されるリスクはあるけれども、たとえある期間身柄拘束され行動の自由を失ったとしてもその分のバーターの利益は得ていると考えられれば、彼らは犯罪を犯すことを選択しかねないのである。
「1億入ったらもう一回(刑務所に)入っても、俺、いいすよ。○○さんはいくらならOKすか?」そんな話が飛び交う世界だ。これこそ正に物質至上主義の下で利益を第一に追い求める思考、そして刻苦勉励して自己を修むことを忘れ、単に刹那に享楽を求める軽薄さという現代日本社会の病の姿を如実に表していると言えよう。そこでは、「卑怯」を忌むという価値は利益や享楽の後ろに追いやられている。