「幽囚の心得」第14章 自由論(6)
「自由論」の最後に「権力による自由」という概念に触れよう。
前述のとおり「自由」とは、「権力からの自由」及び「権力への自由」の性質を合わせ有するものと理解しなければならない。生存権をはじめとする社会権のような国家に対して積極的な配慮を求める権利、即ち「権力による自由」の発動はその状態を放置しては個人の人格的自律が叶わないと考えられる場合に、この自律を成すスタートラインに立つことができるようにと国民を補い助ける趣旨で為されるものである。いわば「権力からの自由」及び「権力への自由」の実現のための条件整備として補助的・例外的に発動されるのが「権力による自由」の位置付けなのである。
このように「権力による自由」の概念を把握するについては、前国家的権利とは異なる政策的に付与される権利としての社会権の性質を正しく理解すべきであり、間違っても国が自分を庇護してくれることが当然であるなどと恥知らずな主張をしないことだ。
個人がその自律的生を全うするためには、成熟した判断能力と見識を身に付けることを要するのであって、その意味で学問を修めることは「自律」を叶えるに不可欠な要素である。
それ故に、憲法26条は1項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」と規定し、2項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は無償とする。」と規定している。
教育とは個人が人格的自律を果たすために必要な素養を身に付けることを助ける役割を有するものであって、当然ながら教育を受ける権利というものの前提には学習権、学ぶ権利の存在が含意されている(最大昭和51年5月21日判決・旭川学力事件判決)。
しかし、ここで私はこれを更に一歩進めて、極端に聞こえようとも敢えて「学ぶ義務」の存在を認めたいと思う。蓋し、議会制民主主義が議論の弁証法的発展による真理と適切な結論及び政策決定への到達を志向している以上、その議論に参加する各構成員も個人として知見、教養を深めることを求められているのであって、その意味では民主政の採用には当然、各個人の学ぶべき義務が内包されていると解すべきだからである。
そして、人格的自律を果たすために教育が必要とされるというその教育の本質論からは、戦後長らく行われて来た「知育」中心の教育内容では全く足りず、より「徳育」というものが重視されねばならない。
この点、2006年に第一次安倍晋三内閣の下で全面改正された教育基本法は、教育目標として「伝統と文化を尊重」し、「それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛すること」を追加し、2015年の学習指導要領においては「道徳」を教科化したこと(経過措置を定める学校教育法施行規則の改正附則[平成27年3月27日文科省令11号]で「特別の教科である道徳」と定めた)は極めて望ましいものと言える。
何も私は戦前教育を賛美してこのように言うのではない。ただ虚心に見れば、現代においても世に一廉の人物は、須らく自身主体的に徳を身に付けるために四書五経に触れるなど独学をし修養に励んでいることを想起すれば、道徳教育がその人間に及ぼす善なる効果と有用性、これを施すことの重要性は容易に理解しうるはずである。
徳を身に付け、人格を磨き、人間の本質を探究することは政治家や教育者、法曹等社会を主導する地位にあらんとする者の姿勢として必須であろう。そして、これはもとよりかかる地位にあり、またかかる地位に就くことを目指す者に限るものではなく、自己統治の価値と自己実現の価値を認む民主主義を実質化し成熟ならしめるために、全ての国民の姿勢として大いに奨励されてしかるべきものなのである。