「幽囚の心得」第10章 大衆を忌避せよ(1)
一口に「社会復帰」といっても、問題なのはその帰るべき「社会」とは如何なる「社会」であるかということである。多くの受刑者はこの最も大事な問題について考察せず、何らの戦略も覚悟も持たずに刑務所を後にする。知的思考を働かすことに不慣れなこともあろうが、問題の所在自体を具体的には探知していない場合がほとんどではないかと思われる。
彼らは自分が置かれた困難な状況は本能的に感じているはずである。まさか自分が出所時に世人に総出で歓迎されるものと思っている能天気な人間はそうはいないだろう。それどころか、むしろ刑罰を科せられる以前においても自身の世における確たる居場所を確立することができず、自身の存在や行動が世人の支持を得ていないと感じてきた者の方が多いのではないか。そして、自らの社会復帰についても世人にスムーズに受け入れられるかどうかと心に不安を抱えているという者がほとんどでないか。受刑によって、自身に対する世人の支持は更に低下しているに決まっているのだから当然である。問題となるのは、そうであるにも拘らず、受刑者の大半がこの自身にとっての重大な問題につき何らの具体的な整理もせずに、漫然とその世人の構成する「社会」に再び徒手空拳で足を踏み入れているということである。
前章で述べたとおり、世人は受刑者に対して徹底した自己否定を求めているということを看過してはならない。多くの受刑者に見られるように漫然とその世人の待つ「社会」に帰るのであれば、それは前提として、世人の考えを自身で受け入れるということでなければ符合しない。即ち、徹底した自己否定を一生涯行っていく覚悟を有さねばならない。あるいは自己否定の貫徹に挫折したとしても、その挫折を自身に対して糾弾し続ける殊勝な心掛けを要することになろう。そして、世人の依拠する、周りがそうしているからそうするという空気のような価値とも言えない価値秩序の中で最後尾に付くことを甘んじて受け入れるということに他ならない。
ところで、仮にその覚悟を固めるとして、やはりどうしても疑問となるのは、より根本的な問題として世人、大衆というものは、そのように盲従するだけの存在、対象として認むことができるかということである。
スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、「大衆とは、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」とする。このように記す『大衆の反逆』は彼が1929年に著した書であるが、正に現代の大衆社会の有り様を言い当てている。ここでは、オルテガの論に触れながら現代の大衆社会の姿を考察していくこととする。
オルテガは、「社会は常に2つのファクター、つまり少数者と大衆のダイナミックな統一体である。」とする。ここで「少数者とは、特別の資質を備えた個人もしくは個人の集団であり、大衆とは、特別の資質を持っていない人々の総体である。」
人間を最も根本的に分類すると、この少数者に該当するところの「自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々」と、大衆に該当するところの「自分に対して何らの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外の何ものでもなく、従って、自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々」に分類することができる。
「社会には、その本質上特殊であり、従ってまた、特殊な才能がなければ立派に遂行しえないような極めて多種多様な業務や活動や機能がある。以前は、これらの特殊な活動は天分のある、少なくとも天分があると自認した、少数者によってなされてきた。そして、大衆はその中に割り込もうとはしなかった。大衆は、もし割り込もうとすれば、自分がそうした特殊な才能を獲得しなければならず、従って、大衆であることを辞めなければならないことを知っていた。大衆は社会の健全な力学関係における自己の役割を知っていたのである。」
ところが、「大衆は今日、かつては少数者のためにのみ保留されていたと思われる生活分野の大部分と一致する活動範囲を持ち」、「それと同時に、少数者に対して不従順となり、少数者に服従もしなければ、追従も尊敬もしなくなったばかりか、その逆に少数者を押しのけ、彼らにとって代わりつつある。」「今日では、大衆は彼らが喫茶店での話題から得た結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである。」「今日の特徴は、凡俗な人間が、己が凡俗であることの権利を敢然と主張し、至る所でそれを貫徹しようとするところにある。」
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