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世人による「自己否定」の求めに受刑者は応ずるべきであるか       「幽囚の心得」           第1章 真の「反省」とは如何なるものか

 私は真の「反省」というものは「自己肯定」に至る過程にあると考えている。
 しかし、大衆社会がその人間が反省したと外形的に判断するに最も容易な様は「自己否定」の表現形態であるに違いない。官憲が身柄の拘束にあたって強制力を用いて被疑者を代用監獄という閉鎖空間に留置することは、その被留置者に対し「自己否定」を促す単純な装置を作動させるようなものだ。

 では、この「自己否定」をした者にとって人生というものは如何に主観的に位置付けられていくものか。そして、その心理はどのようなものとなるのであるか。「自己否定」の原因となった自身の行為を悔恨し、その行為時より以前の自分に戻るために時間軸をその時点まで巻き戻したいと願望するのかもしれない。しかし、勿論そのようなことは叶わないのであるから、その者にとっては二度と同様の過ちを犯さないことを誓い、そうと実践して爾後の人生を過ごしたとしても、人生のある一定の期間の時間は実質的には意味を失われ、その爾後の人生もまたハンデを負ったままマイナスからスタートするということになるのだろう。慎ましく生きよと社会から命ぜられ、社会の定めたモデルのその枠内で最後尾に並ばされて頭を垂れて生きていくのである。それはそれでそのような「自己否定」モデルで改善更生を図る過程もその者本人にとっては(報いであるので当然ではあるが)相当心痛を伴うものがある。
 
 尤も私は翻って考えるにそもそも人間というものは自己を完全に否定したままに生き長らえることができるのかという点に関してはかなり懐疑的である。その意味では他者に「自己否定」を求めるということは、実質的にはその者に対して死を求めるに等しいものだとさえ私は思慮するのだ。しかし、世人はそのようなことに思いを致すことなく意外と簡単に、もっと言うと無責任に過った人間に対し「自己否定」という名の恭順を求める。それはむしろ自身の保身、擁護の心情から生ずるものと思う。

 このような「自己否定」の過酷さと不可能性を無意識に感知することで、人は「自己肯定」に逃避したいという心持ちになりやすいものだと言える。積極的に「自己肯定」をするとまではいかなくとも、当該問題とされているその対象に向き合い直視するということを拒む者は実際に多く存在する。これらの者をここでは「堕落した自己肯定」モデルに属する者と呼ぶこととする。「堕落した自己肯定」モデルに属する者は、自己の過ちの故に科せられた刑罰を単に自己に対する不利益な処分として捉えこれを嫌厭するのが常である。このような者にとっては科せられた罰は創造的な意味としては何らの意味も有さないので、これに要する時間は退屈なだけだ。本を読んだり他者と談ずることも、単に退屈な時間を埋めるためだけの暇潰しの作業であって自身の人生に何らの積極的な意義を齎さない。受刑者の中にはこのタイプに属する者が多いことは否定できない。
 実際に同衆の受刑者たちを見ると、世人一般から求められる完全な「自己否定」などする気は端から毛頭ない中で損得勘定を働かせて「自己否定」の態を装い、自身の解放に資するようにそのように振舞う人間がほとんどである。そして施設側も表面に問題が現れなければそれでよいかのようなおざなりの対応に終始している。このような醜悪で怠慢な予定調和の欺瞞が繰り広げられているのが矯正処遇の現場の実際であり、その環境故に「堕落した自己肯定」がいよいよ助長され蔓延する素地が生まれているという悪循環にあるとも言えるのである。

 真の「反省」は「自己肯定」の過程にあると私が言うところの「自己肯定」とは、勿論、「堕落した自己肯定」に見られるところの自己逃避的な意味でのものを指すのではない。以下、私がそうあるべきと考える真の「反省」たるものの内容を詳論することとする。                                             

 まず「自己否定」モデル同様、私は私の過ちを正面からそれとして受け止め、そこから逃避することなどは絶対にしない。そのような卑怯は働かない。そして、同時に一方で「自己否定」モデルと異なり、その過去の自己の行為を人生の時間の中で消し去るべき対象として観念し行為以前に時間軸を戻したいなどとは全く思念することはない。誤解を懼れず言うならば、過ちを犯した自分自身をも愛することができるかどうかという思考から始めるのである。その上で過ちを犯した自分は向後の人生において、如何にその全てを抱えながらこの機を捉えた生き方をしていくことができるかということを熟考していく。留置、拘禁されたこの状態を如何に生きた時間としていくか、そして如何に人生のストーリーの中で有意味的な位置付けを与えうるかを心底から考え抜くのである。私の言うところの「自己肯定」の思想は、このように人生に起った全ての出来事に有意味性を与えんとする点で「堕落した自己肯定」モデルとは決定的に異なる思想なのである。
 私は、この思想を敢えて「有意味的な自己肯定」モデルと呼ぶこととするが、この「有意味的な自己肯定」の過程というものは、言うは易し行うは難しであり極めて厳しく過酷のものである。前提として当然ではあるが、自らの過ちと一生涯向き合い続け、自己擁護的にこれを想念から消し去ろうとする所為は一切働かない。その意味におけるある種の十字架は一生涯背負って生きていく。そこから逃避し生き長らえようなどという卑怯は働いてはなりらない。そして自身の為すべきこととして、与えてしまった被害についてその填補を貫徹することが必須なのは勿論であるがそれだけでは全く足らないということ、その認識が重要である。たとえ被害弁償を貫徹したとしても、被害を負わせてしまった方々のその人生において失われた時間とその与えてしまった精神的苦痛を元に復してなかったことにすることはもはや不可能なのである。これは遅延損害金や慰謝料的な金銭賠償を為したとしても(もとよりこれらの全賠償を行って初めて被害弁償を貫徹したというべきである)同様である。このことはおよそ困難なことなのではあるが、被害を負わせてしまった方々があのような私による非違であり不義な行為はあったけれどもあのようなことがあったから現在のこの状態となったなというような、却ってある意味で肯定的に捉えていただけるくらいの何か、そのような何かをまで自らの力で現出させ顕していくこと、およそ現実的でないとの指摘を受けるだろうがそこまでの務めを貫徹することが私が為さねばならない責任の果たし方なのである。
 人生の全ての場面を有意味的に捉えなければならないという思想からは、自身に目を向けてもその過ちですらそれがあったからこのような結果が齎された、これを起因として自身の人生がより多くの意味合いを有するようになったと総括しうる状態にまで自らの魂を高めていかなければならない。自らの過ちが社会に与えた迷惑を凝視するならば、その余の爾後の人生において、社会的に意義のある貢献をその過ちが存しなかった場合に比しても、より大きくより多くの意味合いを有する程度にまで成し遂げなければならないのである。

 過去の自分と将来の自分とを一つの正義に適うところの道徳的価値で貫かれた人生のストーリーで繋ぐこと、これが「有意味的な自己肯定」モデルの実践において真の意味で再びに「自己肯定」が叶った到達の地とも言うべき境地である。その境地に至る狭隘なる道程にある修養の姿の中にこそ「反省」の真のかたちがあると私は考えている。
 その実現は被害者の方々の人生のストーリーの再構築にも一面において寄与しうるところがあるのではないか、私はまたそのようにも思う。

 受刑者が真に「反省」し自己を再生していくには、世人による安易な「自己否定」の求めに応ずることはできず、これに抗うことがどうしても必要になるのである。逆説的に聞こえるかもしれぬがこれが真実だと私は思う。

 このように言うとある者は、人生について登攀不能な壁の如く認識し失望の念に陥ってしまうかもしれない。一方で諦観して堕落する自分を許容してしまえば、案外、苦痛も執着も無になってを偸安を貪る居心地の良さを感ずるということもあるのかもしれない。しかし、そのような状態で人は全く虚無感を生ぜずにいられるものだろうか。再犯に陥る理由の一つとして、このような自己に対する喪失感が影響しているということがあるのではなかろうか。
 私は自らの向後の人生の生き方について深慮するに、自分を諦めるということは絶対にしない。そこからすべてが始まる。そこが出発点である。堕落する自分を容認する者は自分自らへの愛情が足りないのではないかと心配する。思うに世人が想定する程度を超えた困難な課題を自己に課し、これを克服することを除いて自己再生の道は存しないというべきである。

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