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「幽囚の心得」第18章                                      幸福論(3)

 ところで、「俗物は、他人に対する要求の中にも、精神的な能力に重きを置いた要求が含まれることはない。いやそれどころか精神的な能力を見せられると、むしろ嫌悪か、甚だしきは憎悪を感ずるくらいである。何故かというと、そんな場合ただ耐え難い劣等感を抱かされるだけで、その心中密かに潜在意識的な嫉みを感ずるけれども、なるべくそれを抑えるようにして、ひた隠しに隠すために、却ってこうした嫉みが昂じて、時には無言の怨みとなることさえあるからである。」(ショーペンハウアー)

 刑事収容施設の中には、残念ながら精神活動はどこにも見当たらない。そこでは本来、内面の精神活動が最も必要とされるものであるにも拘らずである。
 「俗物」が「俗物」を教化している、否、そもそも教化などという実質は何も存しない、単なる施設管理の為の指導しかなされぬ現場では、受刑者は当然のように退屈に陥り、そこから逃れるべく外部的刺激という現実を欲し時を埋めるという何らの蓄積も進歩もない不毛な堂々巡りが繰り返されている。改善・更生・社会復帰モデルの思想は何ら叶っていない。

 ストア派の思想家であるセネカは言う。
「精神活動を伴わぬ余暇は死であり、人間の生きながらの埋葬である。」

 現代社会では商業主義の下で、“幸運にも”感能的(感応的・官能的)享楽の為に間断なく資本を注ぐことのできる環境にある故、極々希少なる立場にある者は退屈を誤魔化し続けることで慌ただしく一生を終えるということも出来得るのかもしれない。よい時代が来たものだ。
 しかし、それにしても自分の一生とは何だったのかと虚しさを感じることが全くないとは到底思えない。ほとんどの世人は生存の糧を得るために人生の意義や目的とは直接には連関しない日々の仕事に勤しみ、その空間で生じた鬱屈した心の慰めや憂さを晴らす為に無意味な娯楽や遊興に時間を費やすが、そのような思索の停止が自らの人生を浅薄なものと堕し、心中の虚無を増大させていくという重大なる事実から目を逸らすべきではない。

 心の充足というものはその為に自らの能力を用いることを前提とするものであって、ただその到来を待ってその時が訪れるといったものではない。心の充足がより深みのあるものであって、より継続的であることによって、人は「幸福」を感じるのだ。そうであるから、自らの精神能力が高尚なるものであればあるほど、「幸福」というものはそれだけ増大していくのである。

 精神能力なる言葉を用いると、低俗な人間ほどその概念を広く捉え希薄化していこうと作為するが、それは正に自らを誤魔化し続けて来た者の習性である。
 精神能力を高め磨くということは、自分とは何ものであるか、人生の意義とは何か、生きるとは一体どういう意味を有するのかという人間の根源の問題を哲学的に探究していくことであって、且つ、この難題から逃げずにこれを直視し続けていくことであることは、余程目が曇ったり、知能に問題がない限り、本来容易に想起できるはずである。要は自分に向かい思索する習慣も欲求も存しない故に、低級な人間のままでいるのであって、その習性が様々な場面で現出することになるのである。底が知れるとはそういうことを言う。

 ショーペンハウアーの更なる言を引こう。
「圧倒的に豊かな精神的能力に恵まれた人間は、思想的に内容の豊富な徹頭徹尾溌剌として有意義な生活をしている。自己自身の内に既に最高級の享楽の源泉を宿している。」
「精神的感受性は我々の諸々の認識能力に具わるものであり、精神的感受性が圧倒的に多ければ認識することを本質とする享楽、即ちいわゆる精神的享楽ができるようになる。」

 刹那的な感能的(感応的・官能的)享楽に興じ、物質によって即時的な満足を得ても、その効果は永続しない。そのような外部的作用によってのみでは心の深きところまで充足しはしない。先に述べたとおり外部的作用も内部的な精神作用を通じて心に届く。心に届いてからが本番だ。前捌きで安んじようとしてもそれは本番前の前説でしかない。心の深きところに届き、心の充足を得ることで「幸福」感が生じる。精神を磨けば「幸福」が増大するのはむしろ当然のことだと言える。

 ショーペンハウアーの次の言はその真実を端的に表現している。
「真の欲望がなければ真の快楽はない。」
 正にこれが真実なのだ。
 自己の精神を錬磨し、自己の存在の意味を知る為に自分を深く掘る、徹して掘り続ける、気狂いのように掘り続ける。このような精神生活が充実しないと真の快楽はないし、真の満足もないし、詰まるところ「幸福」を得ることは出来ない。
 精神生活の充実した人間の全ての時間は統一的な価値より導かれている。仕事も余暇も趣味も勉学も娯楽も遊興も淫靡な放蕩も精神鍛錬も修養も休息もない。全ては自らの精神に依拠して為されたその者の性質を現すいわば同質的な所作として把握される。全ての所作は自分という人格の発現たる全一的な作品の構成の内の一部である。

 アラスデア・マッキンタイアの言うところの「自己の物語的観念」という概念も、誰もが徒手のまま何らの修錬もなく完成し得るものではなく、ある程度、高尚なると認められる精神能力を鍛練し培った者のみが手に入れることのできる自己確証の一つの統一された形であると言えるのである。


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